リベンジ-8(ユウタ)

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チャーターした、水上飛行機は早朝、フルレ空港を出発した。

まだ夢うつつの陸は、ぼんやりと窓の外を眺めている。

けれども、じわじわと姿を見せる南国の情景に、あっという間にはしゃぎ始める。

「あれ?あれがぼくの島っ?」

どれが自分が降りたつ島か、その選別に夢中になる。

ひとつ、またひとつ、次々と横切っていく島々に圧倒され、いつしか黙り込み魅入っている。

モルディブという名の由来はサンスクリット語で、花輪の島々と言うところから来ているのだと、飛行機のクルーが教えてくれた。

MALA(花輪)DEEP(島々)

こんもりと生い茂った緑の島をぐるりと砂浜が抱く様は、確かに白い花弁のようだ。

紺碧の海に連なり浮かぶ姿を眺めれば、花輪の由来に頷かずにはいられない。

三十分ほどで水飛沫を上げて水上飛行機は海面に降り立った。

ゆっくりとプロペラを回し、島の桟橋に近づいていく。

三人のスタッフが人懐こい笑顔で俺たちを迎え入れてくれた。

荷物を部屋に運び入れると、島を一周案内してくれる。

そこは本当に小さな島だった。

小学校の校庭ひとつぶんといったところか。

途中、さっき飛行機をつけたのとは違う短い桟橋に遭遇する。

その先には、海に浮かぶ水上コテージがひとつ。

ちょっと、配管の調子が悪くメンテナンス中なのだと、案内のスタッフはすまなそうに言った。

滞在中には必ず修理が終るから待っていてくれと。

更に肌の色を濃くした作業員が、水上コテージになにやら器材を運び込んでいる。

陸は中を見てみたいと駄々をこねたが、作業の邪魔になりそうだし、後のお楽しみにしようと言い聞かせた。

荷解きの為、再びコテージに戻る。

二つしかないビーチコテージはプライバシーを保つ距離に並べられていて、木の温もりを感じさせる造りになっていた。

荷物の整理をするから外で遊んでいてねと、サチに部屋を追い出される。

岡部は早々に支度を整えたらしく、海が覗ける木陰に張られたハンモックに寝転んでいる。

あぁ、この海だ。

海と空が溶け合った水平線を眺めた瞬間、広がる青い色彩に懐かしさが込み上げる。。

「ねぇ父たん、おふとん一個しかないでしょう?」

足元を横切るヤドカリを指先で追いながら、ポツリと陸は問いかけてくる。

おふとん一個?

ビーチコテージには天蓋のついたキングサイズのベッドが置かれていた。

親子三人、川の字に寝ても余裕の代物。

「ヒロもひとりじゃ淋しいでしょ?」

まさか、二つのビーチコテージで部屋割りをしようって言うんじゃないだろうな。

陸が描いている図式など、火を見るより明らかだ。

…岡部のコテージに追い出される。

そう身構えた途端、陸が口にした言葉は意外なものだった。

「かったほうがサッちゃんと眠れるんだよ。いち日いっ回づつ、勝負して決めるんだ」

は?勝負なんてごたいそうな言葉を、陸がさらりと言ってのける事に驚く。

 

チンデンサー→自転車

あんばんごん→ハンバーグ

あさな→さかな

 

ほんの少し前まで、サチの同時通訳がなければ、何を言っているのか解読不可能な語学力だったというのに…

今でも舌足らずな口調で、笑わせてくれる事だってない訳じゃない。

だが、確実に進化していやがる。子供の成長は驚異の連続だ。

陸はごそごそと、自分のリュックを探り始めた。

そして取り出したモノは…携帯用の小振りなオセロだった。

え?勝負ってこれでかよ?

……。

ぶぶっ。

堪えろ、堪えるんだ。

可愛いモンじゃないか。

何だかんだ言っても、五歳児の陸は所詮、子猿に毛が生えた程度の思考回路しか持ち合わせていない。

オセロで俺に勝てると勘違いしているあたりがそれを証明している。

サチとの一夜を賭けてのガチンコ勝負。

突拍子ない発想だが、子供の立場をふりかざして独り占めしない辺りは、なかなか男気がある。

さすが俺の息子。

まぁ、お子ちゃま相手に本気を出すのも大人げないってもんだ。

仲良く半分こ出来る程度に負けてやってもいいか。

ナイスなアイディアじゃないか。

毎晩、川の字で並んでいたら、サチと大人のバカンスも楽しめないってもんだ。

願ったり叶ったり。

高笑いを必死で堪えながら、神妙な顔で陸を見据えた。

「いいよ。だけど負けた時に泣きつくなよ。男同士の真剣勝負だ」

「しんけんしょうぶ?」

「本気でやるって事」

陸はコクリと頷いてみせた。

にこりと無邪気な笑みさえ浮かべて。

記念すべき最初の夜…いや違う。

しょっぱなはとりあえず、親父の威厳を示さないと…

俺はもっともらしい理由を、自分自身に言い聞かせた。

 

…元凶はわかっている。

椰子の木陰でハンモックに揺られ、涼しい顔で煙草をふかしているアイツのせいだ。

「…牛並みの勢いでどうした」

ずんずんと近づいてくる俺を、愉快そうに眺めながら、岡部は口の端から紫煙を吐き出した。

「お・か・べ~。てめぇ、陸に何を仕込みやがったっ」

凄む俺を、ヤツは鼻先で笑い飛ばす。

「やられたのか?」

「冗談じゃねぇぞ、おい」

“父たんは黒、ぼくは白ね”

ん十年ぶりのオセロは、駒がマグネットになっていたりして少々時代の流れを感じたものの、勘はすぐに取り戻せた。

だが…

「誘うんだよ、いかにもここに置くと縦も横もひっくり返ってお得ですよって場所を、アイツはわざと作るんだ。それでのこのこ駒を置くとよ…」

「隅を取られる。オセロは四隅を制した者にはかなわないからな」

「…やっぱりお前だな」

さっきまで盤は黒に染まっていたのだ。

だが、陸が隅に白駒を置いた途端、状況は一転した。

嘘だろ?

陸、お前、あいうえおすら、まだ書けないんじゃなかったっけ?

白、白、白。

目の前が白一色に染められていく。

…悪夢のようだ。

いや、悪夢そのものだった。

最後、俺は自分の駒の置き場所すら見失っていた。

オセロはひっくり返せる対象がなければ、置く事が出来ない。

“父たん、いっかい休みね”

パチリと残り少ないマス目に白駒を乗せると、盤に貼り付いた黒駒を小さな指が摘まみ上げ、カタカタと裏返していく。

勝負は決まった。

ガクリと肩を落とす俺を横目に、陸は駒を箱に戻し始めた。

“おかたづけ出来ない人とは、もう遊べないよ”

大人びた口調で叱咤され、もはや、うな垂れる事しか出来なかった。

 

「別に仕込んでなんていないさ、コツを少し教えただけだ」

「はぁ?ロクでもねぇ事教えやがって…」

「ロクでもないだと、お前はそんな目先しか見えないからやられたんだろう?陸はな、アイツはな…」

岡部は意味ありげに少し間を置いてみせた。

「何だよ」

その先の台詞が読めなくて、急かすような口調になっちまう。

「アイツは三つ先くらいまで相手の出方を予測しながら駒を進めていくんだ」

「は?」

「興味を持って鍛えれば、子供の頭は無限ってことだ」

三つ先の手まで読んでいるだと?

何言っていやがる。

嘘だろう?

俺は、あのチビスカポンタンと何を賭けたんだっけ…

泣き言なし、男同士の真剣勝負。

“かったほうがサッちゃんと眠れるんだよ”

 

夜明けの気配が忍び寄る。

普段は意識しない当たり前の営みですら、この場所は奇跡へと変えてしまう。

南国の太陽から朝が産まれ落ちた瞬間、島の艶やかな色彩達は光を含み、息を吹き返し始める。

ドラマティックな舞台の幕あけ。

昔、サチとドーニ・ミギリのビーチを早朝、散歩に出掛けた。

薄暗かった視界が色づいていく様を、寄り添いながら息を潜め眺めたあの日。

どれくらいの歳月が流れたのだろう。

再び足を踏み入れた楽園で、俺は安息の朝を迎える。

柔らかい光が、瞼から透けて見えた。

心地よく気だるい目覚めを味わい、薄目を開く。

シーツに片手で頬杖をつきながら、俺に視線を落とす岡部と目が合った。

絡む視線。

…いつから…そうしてた?

寝ぼけた頭が、ゆっくりと回りだす。

岡部から感じる何かが、ずっとジグソーパズルの断片のように頭の片隅に散らばっていた。

時に人は一瞬にして、全てを悟る事がある。

あ、やばい。

そう思った。

俺は気付かないふりをしていただけなのかもしれない。

ディズニーランドでの口付け。

トラックの前に立ちはだかったジャガー。

ブルーアイズにショートボブの女。

“俺の手を離すなと言ったんだ”

どうして今になってこんな事。

…目が、こんな不意打ちに眼鏡を外した岡部と、目が合ったからだ。

見透かせる程の至近距離で。

視線が絡み合う瞬間、心の奥底で最後のワンピースをパズルへはめ込む音が響いた気がした。

繋がったパズルが差し示す答えはなんだ?

まさかな…

いや、そうなのかもしれない。

俺はふと、旅行前にギブスが取れ、まだ傷跡の残る岡部の片腕に視線を泳がせる。

なぁ、こんな俺のどこに命まで投げ出す価値がある?

愛は全てサチに注ぎ、陸には振り回され、もう出がらししか残っちゃいないよ?

アンタも物好きな男だよな…

「お・か・べちゃんっ、オハヨ~」

ぶちゅっと朝のご挨拶を、奴の頬にぶちかます。

ばたんっ

目を丸くし隙だらけになった岡部の身体を押し倒し、息がかかる距離で見下ろした。

「随分と熱烈なご挨拶だな」

あれ?喜んでくれると思ったのに。

眉間の深い縦皺はなぁに?

俺は岡部の腕に、そっと手を添えた。

「嫁入り前の大事な身体を、傷物にしちゃったよね」

「…なんだ、やぶからぼうに」

「一生面倒みてやるから安心してよ」

一瞬、岡部は口をつぐんだ。…と思ったら、次の瞬間見慣れたあの、皮肉めいた笑みを浮かべた。

「俺はしぶといからな、長生きするぞ。へたなNGなんて出したら、爺になっても杖で小突いてやるから覚悟しておけ」

……。

コイツが言うと、なまじっか冗談に聞こえないところが恐ろしい。

だが、男に二言はない。

「負けねぇくらい頑固なくそ爺になって、悪態ついてやるから任しとけ」

ちらりと窓辺に目をやると、いっそう陽射しを強めた木漏れ日が、カーテンに影模様を刻んでいる。

「いい朝だな」

ポツリと呟く奴の声が傍らで聞こえる。

きっと忘れない。人生にはそんな風に感じる一瞬がある。

お前の想いを確信した朝を、きっと一生、俺は忘れないだろう。

「さてと、隣のコテージに乱入するかな。大魔人からさっちゃんを奪還しなくちゃ」

返り討ちにあうなよと、岡部は笑った。

まったくだ。

ギシリとベッドを軋ませ、俺は床に足を着いた。

背中に岡部の視線を感じながら…

カチリと小さな音を立てて、奴が煙草に火をつける気配を感じる。

シーツを焦がすなよ。

振り返らずにドアに足を運ぶ。

変わらないさ、何も。

友情か愛情か、どっちだって構いはしない。

岡部と俺の繋がりは、偽りなくかけがいのないものなのだから。

 

ベッドを支える四本の主柱が天井に向かって伸びている。

そのてっぺんから、ぱらりと垂れた薄布が、ベッドをすっぽりと覆い隠している。

天蓋付きのベッドってやつは、随分とロマンチックな代物だ。

カーテンで囲まれる様は、小さな劇場を連想させる。

寄り添い眠る陸とサチの姿が、透けた布地からうっすらと覗いていた。

さしずめ俺の役どころは、妻を寝とられた旦那役といったところか。

すっかり役にはまっちまったのか、手にかけた薄布が妙に生めかしく感じる。

秘密のベールを引き剥がす気分っていうの?

…おいおい、マジかよ。

そっと覗きこんだ目の前の光景に、力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。

この男、五歳児にしてどこでそんな技を仕入れてくる?

枕で浮いたサチの首元に、陸は細っこい腕を差し入れている。

これってまさか、

まさか、まさか…

腕枕?

絶対におかしい。

陸のサチに対する感情は、母親に対するそれを逸している。

どう見ても恋人だと勘違いしていやがる。

まじまじと恋敵の姿を上から眺める。

…満足そうな顔しちゃってよ。

そっくりだ。自分でもそう思う。

子供の頃の俺に生き写し。

遺伝子ってすごいのな。突き付けられた己との血の繋がりに、頷かずにはいられない。

サチに対する執着心や愛情までもが、コイツに遺伝しちまったのだろうか。

苦笑いするしかない。

そう思えば、元凶は自分自身ではないか。

俺はそっと秘密の陣地を抜け出した。

揺り起こすのは忍びない。

仕方ねぇよな。一応親父だからよ。

一歩譲ってやらなきゃ見苦しいってもんだ。

いや、そんな悠長な事を言っている場合ではない。

俺はソファーに投げ出された陸のリュックに目をやった。

今のうちだ。

今のうちに岡部に泣きついて、ご指導賜らなければ、今夜もサチを寝とられちまう。

ちぃーと、小さな音を立ててリュックのチャックを開く。

中からオセロを抜き取ると、俺は忍び足でコテージを抜け出した。

 

この島のハウスリーフには度肝を抜かれた。

ドーニ・ミギリにだって、魚なんて水族館かと思う程に溢れていたさ。

たけど…ここはそんなレベルではない。

ドロップオフには珊瑚礁が連なり、色とりどりの魚が大群をなして回遊している。

陸が浅瀬に足を踏み入れると、帯のように群れていた小魚がふわりとその形を変形させた。

陸を中心に、まるで土星の輪っかのように渦巻きはじめる。

キラキラと反射させる背ビレに陸は目を細め、「お魚のドーナツだ」とはしゃぐのだ。

子供ってやつは底無しの好奇心で、自然に立ち向かう。

島一周の生態観察。

一列に並べて繰り広げるヤドカリレース。

サチと過ごしたバカンスとは、全く違った休息がそこにあった。

ロマンチックとは程遠く、自分までもが子供の目線で童心に返っちまう不思議な感覚。

岡部までもが陸に指示され、砂の城の建設に借り出される始末。

海から水を引くんだよ。

小さな建築家は、頭の中でどんな設計図を広げているのだろう。

ビーチに敷いたラグに腰をおろし、サチが砂と奮闘する男達を眺めている。

クスクスと笑いながら、優しい眼差しで見守っている。

久し振りに結い上げたミーの髪型。

インドシルクで紡がれた柔らかいノースリーブのワンピース。

母親の顔を見せたり、無邪気に大きく口をあけて笑い転げたり。

幸せってこういうことを言うんだろうな。

なんて満たされた至福のひと時。

砂紋が描かれた象牙色のビーチに、四人の足跡が刻まれていく。

それはグローマンズ・チャイニーズ・シアターに刻印された映画スター達の足跡よりも、俺には価値があるものに思えた。

 

一体、いつ勝負を仕掛けてくるのだろう。

昼過ぎから俺は、ちょいとばかりビクついていた。

あのリュックから陸がオセロを取り出す瞬間を、息を呑んでじっと身構える。

試験直前の学生のような気分で何だか落ち着かず、ぐいっと昼間からビールなんかをあおったせいか、ついうとうととしていたようだ。

ふと目を覚ますと、水平線が光を孕んだ飴色に染め上げられている。

南国の太陽が奏でる壮大なサンセット。

やばい、すっかり寝込んじまった。

昨日、岡部が揺られていたハンモッグから飛び降りる。

まだ重い瞼をこじ開け、辺りを見回すと、海から並んであがってくる陸と岡部が見えた。

「父たん、海亀を見たよ!」

びしょ濡れの髪を揺らしながら、水中眼鏡を手に陸が走り寄ってきた。

こんな大きいのと、手をいっぱいに広げてみせる。

少し遅れて来た岡部が、ちょっと大袈裟だなと、笑いを含んだ口調でたしなめる。

「お前、腕は大丈夫か。起こしてくれれば俺が行ったのによ」

「ライフジャケットを着ているから、足だけでも何とかなるさ。スイミングリハビリだ」

差し込む夕日が、岡部の身体から滑る滴を金色に光らせている。

岡部ちゃん、水も滴るいい男だね。

アンタがその気になれば、男も女もがほっとかないだろうに…難儀な野郎だ。

タオルを持ってきたサチが、テラスにお茶を用意したよと誘いかけてくる。

酔い覚ましにはもってこいだ。

アルコールが残ったままでは、オセロの達人に太刀打ちできない。

コテージのリビングから続く広々としたウッドデッキテラスには、ガーデンパラソルのついたテーブルがひとつ。

そこでコーヒーを啜りながら、今朝岡部とシュミレーションしたオセロの戦法を頭の中で整理する。

“目先に捕らわれず、盤全体を眺めろ”

それが岡部のアドバイス。

”一見美味しそうな場所があったら、疑ってかかれ。それは、陸が仕掛けた罠かもしれないからな”

ありがたいお言葉に両手を合わせたい気分だ。

けれども、もう一歩踏込んだ練習をするには、ちょいとばかり時間が足りなかった。

陸が立ち上がり、開け放った扉からコテージの中に入っていく。

そして戻ってきたその手には、あのリュックが握られていた。

どくんっ。

決戦の幕開けに武者震いが襲いかかる。

だが、陸が取り出したのはクレヨンの箱だった。

肩透かしを食らい拍子抜けする。

「山崎せんせいが、スクダイ出したの」

スクダイ?

幼稚園の名前が端に印字された画用紙に、陸は絵を描き始めた。

…あぁ、宿題ね。

状況で幼児言葉を解読する。

俺もなかなか幼稚園児の親らしくなってきたんじゃない?

パパの会委員として、運動会の準備にもいそしんだ。

サチ争奪戦から一歩退いた山崎とは、運動会の打ち上げで祝盃を分け合う間柄にすらなっていた。

縁とは不思議なもんだ。

「この島の名の由来を知っているか?」

おもむろに岡部問いかけてくる。

「接待に使う事もあるって言ってたから、社名が島の名前じゃないのか?」

立派な髭をたくわえた、島のオーナーの顔が頭をよぎる。

気さくなキップのいいおっさんだよな。

フォーマルパーティだっていうのにカウボーイハットなんて被っちゃってさ、とてもこんな金持ちには見えなかった。

「ローズ・アイランドって言うんだ」

「ローズ?この島に薔薇なんて咲いていたか?」

不思議な気分でそう問い返す。

「奥方の名前だそうだ。愛する妻へ、結婚記念日にプレゼントしたってのろけていた」

は?島をプレゼントだと。

「わぁ、映画みたいっ。素敵ね」

頬杖をついたサチがうっとりした眼差しで呟く。

女には堪らないロマンティックなおとぎ話。

セレブって奴は、金の使い道も目のつけどころが違うんだな。

ねぇ、さっちゃんのそんな羨ましそうな顔を見ちゃったらさ…

俺だって…俺だって…

「ぼくが買ってあげる」

画用紙から顔を上げた陸が、サチに笑いかけている。

「小さな島、お仕事して、ぼくがさっちゃんに買ってあげるからね」

無邪気な宣言にサチは嬉しそうに頷いてみせた。

お前、それは…

それは…それは…

俺の台詞だろうがっ。

「仕事が欲しかったら、いつでも世話するぞ」

愉快そうに岡部がちゃちを入れる。

世代交代を宣告されたボクサーになった気分で、俺はヨロヨロと立ち上がった。

どうしたの?という眼差しでサチがこちらを見上げてくる。

「…シャワー浴びてくる」

冷たい水飛沫で悪夢を振り払いたい気分だ。

歩き始めた俺の背後から、賑やかな笑い声が響く。

これで更にオセロで負けるような事になったら…

途方に暮れた気分で独り、とぼとぼと隣のコテージに潜り込んだ。

 

一時間程経っただろうか。テラスに戻ると、陸が眠そうに椅子にもたれている。

テーブルの上には、食べかけのサンドイッチが置かれていた。

「もう眠そうだから先に食べさせたの。ベッドに行こうって言っても、ユウちゃんを待つんだって聞かなくって…」

サチが困った顔で訴えてくる。

半分目を閉じながらも、俺の姿を認めると、陸は傍らのリュックに手を伸ばした。

見上げた根性だ。

「眠いってまだ七時前だぜ?」

意外な展開に俺は困り果てた。

「日本じゃもう夜の十一時近くだ。限界だろう」

時差…岡部の言葉に納得する。

寝ぼけた息子に勝利しても、サチを取り上げるのはあまりにも大人げない。

突然、陸は立ち上がると、グイっと俺の手を引いた。

「さっちゃんはヒロと寝るんだよ。いこ、父たん」

ずるずると低い位置から引っ張られ、足がもつれそうになる。

“さっちゃんはヒロと寝るんだよ”

寝るってお前、紛らわしい言葉を使うんじゃねぇよ。

心臓に悪いったらありゃしねぇ。

何言ってやがる。冗談じゃない。

それでも仕方なしに手を引かれるままに歩き出し、目を丸くしたサチと顔を見合わせる。

その隣では椅子にもたれ、岡部が涼しい顔でワイングラスを傾けていた。

そこで待っていろよ。

睨み付けるような目配せをすると、俺は陸と秘密のベールで覆われたベッドになだれこんだ。

「…海亀とぼく、泳いだんだ…」

寝言のようにポツリと呟くと、ウルトラマン並みのタイムリミットで陸は寝息をたて始めた。

頬っぺをつまみ眠りの深さを確認すると、俺はウッドデッキテラスへと飛ぶように舞い戻る。

いつの間にかテーブルはウェイターによってデイナーの支度で整えられていた。

お行儀よく、サチと岡部は席について談笑している。

岡部の気持ちにサチは気付いているのだろうか?

一瞬、そんな疑問が脳裏をよぎった。

さっちゃん鋭いほうじゃないからな…

いや、女の勘を見くびってはいけない。それは数々の色恋沙汰のなれの果てに、思い知らされた事実。

例え知っていたとしても、サチも俺と同じスタンスをとる気がした。

ありがままを受け入れ、何も変わらず岡部と接していくだろう。

岡部とサチには特別な絆が垣間見える。

俺が入り込めないその空気に、言い掛かりともいえる嫉妬心を抱くこともしばしばだった。

俺が席に付くと、サチが陸の様子を尋ねてくる。

ぐっすり眠っていると伝えると、安心したようにワイングラスに手を伸ばした。

さっきの話は何なんだよ岡部…と詰め寄ろうとしたら、サチが先に口火を切った。

「えっと、あたし今日はヒロのコテージ行くの?すっごい寝相悪いけど、それでもいいの…かな」

サチは恥ずかしそうに告白している。

さっちゃん、ねぇ、何言ってるの?

そんな部屋割りあるわけ無いでしょう。

岡部とひとつ屋根の下、あんなベッドに一緒に眠るなんて…

コイツだって男なんだ。いつ、さっちゃんに心移りするかなんて、わかんないんだよ?

この警戒心の無さには目が離せやしない。

「寝相が悪いのはいただけないな。腕を蹴飛ばされたらかなわない。残念だが権利はユウタに譲るか」

「権利って…なんの話だよ岡部」

「今日の挑戦者は俺だ。なかなかいい勝負だったが、花を持たせてもらった」

「え…まじ?オセロ?」

テーブルに置かれたキャンドルを手に取ると、岡部は咥え煙草に火を移した。

勝者の貫禄に羨望の眼差しを向ける。

「やだ、変だと思った。オセロで部屋割りしてたの?」

あれ?夕べ陸から、勝利宣言聞いてないんださっちゃん。

自慢気に言いふらしていると思ったのに、アイツ意外と…

意外や意外と…

「負けた後、引き際は良かったぞ。悔しそうな顔はしていたがな」

“男同士の真剣勝負だ”

俺と交わした約束の意味を、あのちっちゃい頭でいっぱしに理解してやがる。

「水上コテージの修理が終ったらしいから、今夜は二人であっちに泊まって来い。陸の面倒は俺が見る」

「え?水上コテージって…」

「桟橋の先っぽのあのコテージだ。陸にはこの後、お前と勝負をして負けた事にしておいてやる。たまには夫婦水入らずも悪くないだろう」

……。

粋な計らいにすぐには言葉が出なかった。

なぁ、これがアンタの愛し方か?

真っ直ぐに岡部を見据える。

俺、遠慮なんてしないよ?

でもよ…

「明日からのオセロに俺は立ち入らないからな。陸に勝てなければ今夜一晩限りの逢引になるかもしれない。心残りがないようにしろ」

行って来い。

岡部の視線に背中を押される。

立ち上がりサチの手を引くと、途惑いの感覚が伝わってくる。

彼女は黙って岡部を見詰めていた。

「息子の扱いは慣れている、安心しろ。朝には飛んでいくと思うけどな」

ふと、繋がれた指先の力が抜け落ち、サチは素直に席を立った。

「お休み、ヒロ」

「あぁ、いい夜を」

さらりと岡部はそんな言葉を口にしてみせる。

俺はありがとよと、いつもの調子で軽く言うと、サチの背に手を添えて歩き始めた。

俺は卑怯者か?岡部。

だが、他の立ち振る舞いを俺は知らない。

こうして差し出される奴の道を、迷いなく信頼し足を踏み出すこと。

それが俺の応え方だ。

 

桟橋に向かうまでの僅かな時間、サチも俺も黙って寄り添い歩み続けた。

あぁ、知っているんだな。

サチは知っている、そう漠然と感じ取った

俺が長い間、岡部と過ごす時間を、彼女は黙って受け入れていた。

どんな想いで待っていたのだろう。

俺一人がお気楽で、自分の事しか考えていなかったなんて…

“あたしだってユウちゃんが寄り掛かってきた時には、支えてあげられるんだから”

ふと一ヶ月前、岡部の病室で、俺の背中に寄り添ってきたサチの感触が蘇る。

支えてもらってばかりだ、岡部にもサチにも…

高見を目指そう、もっともっと、大きく羽ばたいて。

家庭と仕事の両立ってやつを保ちながら、俺は足踏みすることなくより高く舞い上がってみせる。

桟橋の両脇に並べられたキャンドルが、海風に揺らめいている。

これも岡部の計らいか?ロマンティックな演出に、苦笑いを噛み殺す。

海の上に浮かんだ小さなコテージは、ひっそりと静まり返っていて、かくれんぼの気分でサチと忍び込む。

薄暗い室内。けれど、一歩足を踏み入れると、サチは興奮を隠せない様子で俺の服の裾を引っ張った。

「ユウ…ちゃん、すごい。ね、すごい」

ビーチコテージと同じ天蓋付きのベッドには、花びらが散らされていた。

そして目を見張るのは、床の中央が大きく硝子張りになっている事。

海を覗ける床下は、淡いライトが灯され、つられて集まった魚たちの鱗模様を、艶やかに照らし出している。

剣のように細長いヤガラ、背びれをなびかせるハタタテダイ。

極めつけは、青白く己の身体を発光させながら通り過ぎていくイカの群れ。

「やだ、美味しそう…」

サチは冗談とも取れない声色で、じっと手の平の下を泳ぎまわるイカを眺めている。

おもむろに悠然と、海亀がその姿を現した。

サチのテンションは上がる一方で、ついには硝子の上に頬杖をついて寝転んでしまう始末。

「ふふ、陸ねさっき海亀の絵を描いていたの。きっとこの亀が遊んでくれたのね」

でかい…。なまじっか陸が手を広げてみせた仕草は、大袈裟なんかじゃなかったのかも。

年季の入った亀の甲羅を、俺もサチの隣に寝そべって眺めた。

触れ合うほどの距離で硝子の下を眺めていると、次第に視線は魚よりもサチに流れてしまう。

我慢できずに手を伸ばし、髪をほどく。

ぱらりと硝子にサチの髪が流れる。

君は誰?

流れた歳月の末、今ここに彼女がいる奇跡を改めて噛み締める。

嫁さんで、陸の母親で…出会った瞬間から心を奪われた俺の恋人だった女性。

唇を寄せると、何だか皆に覗かれているみたいで恥かしいとサチは照れている。

いいじゃん、俺、ギャラリーが多いほど燃えちゃうタチだよ?

たまには二人の恋物語を、観客にお披露目するのも悪くないさ。

体重を支える手の平の、高まる体温がうっすらと硝子を曇らせる。

俺はさっき言いそびれた告白を、そっと柔らかい耳たぶに吹き付けた。

「いつか君のために小さな島を買ってあげる」

二番煎じは頂けないが、自分の言葉で口にすれば、それはそれでいいと思った。

サチはその台詞に小さく頷くと、甘えるようにそっと顎を俺の肩に乗せてくる。

その僅かな重みが、どんなに俺の胸を震わせる事か。

岡部ちゃんに、ギャラのいい仕事を吟味してもらわなくちゃな…

ほんのひと時の二人きりの夜、二人きりの時間。

独り占めできる満足感がひたひたと押し寄せてくる。

夜空を飾り付ける星々に、ささやかな願いを口ずさむ。

今夜は、俺だけの君でいて…

天上の楽園で、喉元を滑り落ちる満たされた幸福の溜息。

サチの温もりを毛布にして、波音に眠り、波音に目覚める朝を迎えよう。

【THE END】

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