リベンジ-5

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目が覚めると、白い壁に囲まれた天井が見えた。

投げ出した手の平に感じる温もり。

あ……

ユウちゃんが、眠っている。

椅子に座ったまま覆い被さるように上半身をあたしのベッドに預けている。

白いカーテンに透ける柔らかい朝日が、ユウちゃんの寝顔を照らしていた。

その背後には陸のベッドがあった。

ギシっ

ユウちゃんを起こさないように気を使いながら、そっと隣のベッドに手を伸ばす。

触れた陸のおでこは、いつもの体温を伝えてきた。

良かった……

そう確認すると、再び自分の簡易ベッドにもたれる。

ぼんやりと投げた視線の先には、重なり合ったユウちゃんと陸の寝顔。

ふふっ……そっくりだ。

いつ眺めても微笑ましい。

だけど、そんな暢気な気分は、ふと思い出した昨夜の情景にかき消された。

昨日……あたし……

具合が悪くなって、ヒロが診察室に連れて行ってくれたところまでは覚えている。

その後は意識が朦朧として、この病室に運ばれた事すら曖昧な記憶。

けれども、あの一瞬は振り払おうとしても脳裏に焼き付いている。

抱き締められた山崎君の肩越しに見えたユウちゃんの顔。

……見られてしまった。あんなあたしを見られた。

自分が許せない。

途方に暮れた気持ちでぼんやりと、シーツに流れるユウちゃんの髪を眺めていた。

ユウちゃんの長い睫毛がふいに揺れる。

思わせぶりにさわさわと、揺らめいてみせて、再び小さな寝息を立てる。

あたしは何を恐れているのだろう。

どくどくと、跳ね上がる鼓動の音。

息を殺し、穴があくほどにじっと寝顔を眺める。

ピクリとも彼は動かない。

……ユウちゃん、綺麗な横顔だなぁ。

規則正しい寝息に安堵し、少しばかり雑念がはいる。

海外で積み重ねてきたキャリアが、ユウちゃんの琥珀色のオーラに更なる磨きをかけている。

濃い睫毛、耳にかかった無造作な黒髪。彫刻のように滑らかな曲線を描く頬。

溜息混じりに眺めていると、すっと、前触れもなくユウちゃんの瞳が薄く開いた。

ね……あたし、どんな顔している?

「ん……さっちゃん……具合どう?」

寝ぼけながらユウちゃんは、すっと、こめかみから髪を梳くように指を差し入れてきた。

大きな手があたしの頭を引き寄せる。

ゆっくり……ゆっくりと、シーツにスロープを描きながらユウちゃんに近づく。

目を閉じて唇が届くのを待ちわびる。

だけど……

ブニっ

ん?何かいつもと違う感触。

目を見開いて正体を確認すると、それは陸の手の甲だった。

背後から陸に羽交い絞めにされ、口を塞がれたユウちゃんが目を白黒させている。

「父たんはあとでしょ」

憮然とした口調で陸が、あたしとユウちゃんの隙間に小さなお尻をむりむりと挟み込んできた。

自分の入り込む隙間を確保すると、するりとあたしの布団の中に潜り込んでくる。

「さっちゃん、おはようのチュウして」

甘えた視線でおねだりをしてくる。

「陸、随分と調子よさそうじゃん。でもさ、さっちゃん見えないんだけど、どいてくんない?」

ユウちゃんの問い掛けに陸はそっぽ向いている。

始まった。久しぶりの三人の朝に早速勃発。

通称、さっちゃん争奪戦。

白熱した戦いを前に、すっかりと引いた熱がぶり返していく錯覚がする。

小さな手が伸びてきて、こめかみから髪を梳くように指を差し入れられる。

あれ、これってもしかして……さっきのユウちゃんの真似してる?

可愛らしく突き出した唇に、ちゅ、ちゅ、ちゅっとついばまれる。

「……陸ぅ、お前やりすぎなんだよ。ママへのキスは頬っぺって相場は決まってるんだ。
なに調子こいて唇にキスしてやがる」

「いいのっ」

ぎゅって、手足全部を絡めてくる。

これじゃまるで、先日眺めた子猿さんだ。

笑いを噛み殺して顎の下をくすぐる陸の髪の感触を味わう。

起き上がり、椅子にもたれ不服そうにこちらを眺めていたユウちゃんが、しぃと、人差し指を立ててみせた。

内緒だよの仕草。

あたしの胸元に鼻先を擦り付け甘えている陸に気付かれないよう、そっとユウちゃんが覆い被さってくる。

久しぶりに味わうユウちゃんのキス。

小鳥ちゃんについばまれるような陸のキスとは違う……大人の口付け。

ぱっ

ふいにその感触がなくなった。

「いでっ、何だよ陸っ」

下からバンザイの姿勢で両手を突き出した陸が、ユウちゃんの顎を上向きに持ち上げていた。

「そんな大きな口でチュウしたら、さっちゃん食べられちゃう」

「か~っ、お前さっき三回もチュウしてただろうが!」

コンコンッ

ノックの音に三人の動作がはたと止まる。

「いい加減にしろ。朝の健診が回ってくるぞ。人様には見せられない修羅場だな」

いつからいたのだろう。知らぬ間に部屋の中に忍び込んでいたヒロが、呆れ顔でもたれた壁を指で叩いていた。

薬を処方してもらい、昼過ぎにはマンションに帰ってきた。

陸は幼稚園の夏祭りに行くのだと駄々をこねている。

「振り返しちゃいけないから駄目よ」

やだやだやだ

行くの行くの行くの

こういう時の陸は手が付けられない。

ユウちゃんは二日ぶりのシャワーを浴びに、バスルームにこもっている。

「陸、諦めろ。今日は行けませんと、もう山崎先生には連絡してある。
ちゃんと治して夏休み明けに元気に登園するようにって先生は言ってたぞ」

諭すようなヒロの口調に陸は一瞬黙り込んだ。

……山崎先生

その名に少し動揺してしまう。

いるはずのないユウちゃんの姿を部屋の中に探してしまう。

「ね、だめ?さっちゃん」

諦め切れない陸の問いかけに、はっと我に返る。

やだ、あたしなにぼんやりしているんだろう。

「さ……っちゃん?」

陸の声に不安げな響きが含まれる。

子供は敏感だ。しっかりしなくちゃ。

「風邪引きさんは、お友達にうつしちゃうといけないでしょう?
だからいい子で今日はベッドでネンネしようね。
ほら、新しい絵本、陸一緒に作ってくれるっていってたでしょう。デパートに住んでいるサンタさんのお話。
お布団のトンネルの中で、一緒に考えようか」

「え……さっちゃん、いっしょにねてくれるの?」

うんうんと頷いて応える。

「きょう、ずーと二人でおふとんのトンネルの中?」

そうだよって微笑んでみせる。

「じゃあ、ぼくいい子でねる。いこ、さっちゃん」

さっきまでの愚図り振りは何処に行ったのか、軽い足取りで陸はソファーから飛び降りた。

「先に行ってて」

え~っと、陸は不服そうな顔をしてみせた。

「ちょっとだけ、ご用を済ませてからいくから、先にお布団のトンネル掘りお願い」

それ以上、反論もせずに、しぶしぶと陸はベッドルームへと向かっていった。

あたしが真顔だったから、変に突っ込んでこなかったのだと思う。

リビングのドアの外に陸が出て行くのを見届ける。

ヒロに言わなくちゃ。

ちゃんと言わなくちゃ。

今でも彼はユウちゃんを愛していると思う。

いつでも感じる……あたしや陸の存在さえも一緒に抱き締めてくれるヒロの懐の深さ。

すり減ることなく愛し続けている熱情。

溢れ出る想いを、歯を食いしばってせき止めているに違いない。

同性だから?

海外暮らしをしてみて感じた。

その壁をいとも簡単に乗り越え、愛し合うカップルのなんと多いことか。

ヒロが真っ直ぐにユウちゃんを欲したならば、また違った歯車が回り出したはずなのに……

決してヒロはあたしの前に踏み込んではこなかった。

そんな姿を横目で見ながら、あたしはヒロの前で昨夜何をしたのというのだろう。

ヒロに言わなくちゃ。

ちゃんと言わなくちゃ。

……でも何を?

言い訳がましく弁明をならべたてる?

いくつかの言葉の羅列が浮かんでは消えていく。

ごめんなさい。

こんな弱虫なあたしで、ごめんなさい。

「夕べは男二人、サチを巡ってガチンコ勝負があったらしいぞ」

「えっ?」

唐突にヒロが切り出した。

あたしの心の内を読んでいるかのように……

「だけどもっと前から先手を打っていた男がいたらしく、ユウタも山崎先生も白旗を降ったらしい」

……話が見えない。

でも、ユウちゃんと山崎君の間でひと悶着あった事は伺える。

返す言葉が見つからず、自分の顔が引きつっているのがわかる。

「陸は大物だな……」

「へ?」

ますます頭が混乱する。

解読不可能。

「ま、気にするなサチ。お前からはユウタに何も言う必要はない。陸がサチの一番だっていう事で話はついたようだ」

その声色には、可笑しくて堪らないといった響きが含まれていて、ヒロは大きな手であたしの髪をくしゃりと撫でた。

“気にするな……”

ほら、まただ。

ヒロの広い海に放たれる。

豊かに息づく、南国の浅瀬にも似た休息を差し出される。

いつだってあたしはヒロから与えられるだけ。

ほんの欠片でも彼に同じものを、分け与えられる日が来るのだろうか。

胸がつまってヒロを見つめ、頷く事しか出来ない。

陸が待ってるぞと、眼鏡の奥の視線にうながされる。

ヒロ……。

貴方には幸せになって欲しい。

背を向けてリビングのドアに向かいながら、心の中で、そう繰り返し祈りを捧げる。

込み上げる想いに堪らずヒロを振り返ると、どうしたと、彼は怪訝な眼差しを向けてきた。

「……あり……がと、ヒロ」

泣きそうな語尾は、小さな嗚咽にかき消された。

ヒロは一瞬、戸惑いを見せたものの、再び無言の眼差しであたしの背中を押した。

ベッドルームで息子がトンネル掘って待ってるぞ。

そんな、からかいが潜んだ視線。

あたしは小さく頷くと、扉をあけて陸の元へとに歩き始めた。

変だなって気付いたのは夏休みも終り、陸の制服が長袖に変わった頃だ。

ユウちゃんが、毎日家に帰って来る。

海外へ行く予定は、今のところ聞かされてはいない。

英語の台本をじっと眺めている事があるから、撮影がそのうち始まるのかもしれないけれど……あたしは深く追求はしなかった。

たまに国内を遠出する事があっても、必ず帰ってくる。

“ただいま、さっちゃん”

ドアを開けると、ユウちゃんが立っている。

日常に溶け込んでいくユウちゃんを、不思議な気持ちで眺めていた。

山崎君は、何事もなかったかのように振舞っている。

たまに、探りを入れるジャブを仕掛けてくるものの、それ以上は踏込んではこなかった。

「最近、気付いたんだけど、陸君ってさ、ほとんど桂木ユウタのミニチュアみたいな容姿だけどさ、
なんか企んでいる時の顔とかはサチにそっくりなんだよね。笑える」

「え……そうかな?」

帰る前に一回だけ、どうしてもブランコで遊びたいと言う陸に付き合って、あたしと山崎君は園庭のベンチに肩を並べて座っていた。

「明日の土曜日参観、ダンナ来るの?」

土曜参観……わざわざ土曜日に開催されるってところが本当のところは父親向けの催し。

けれども今の時代、父親参観と明言するのは問題があるらしく、どちらが参加しても構わないという建前で執り行われる。

ヒロとの会話の中で、週末は写真集の撮影が入っていると耳にしていた。

だから、あえてユウちゃんには土曜参観の事なんて知らせていなかった。

「ま、無理か。でも、桂木ユウタが来たりしちゃったら、ちょっとパニックになっちゃうかもしれないもんな」

「……だよね」

「でもさ、最近ずっと居るみたいじゃん、陸くんよく話するよ、父たんの話」

「え、そうなの?」

……まさか、悪口じゃないよね?

「父たんも子供の頃はクワガタ博士だったとか、風呂に入りながらシャボン玉パーティしたとか、楽しそうに喋ってるよ」

へぇ、ふうん、そうなんだ。

意外だった。でも、確かにあたしがご飯の支度をしている時に、男二人で図鑑を眺めながら、こそこそと楽しそうに喋っている時もある。

「それにさ、ヒロ……岡部さんだっけ、彼の話もよく出るよ。オセロを買ってもらったって言ってた」

そう、珍しくヒロが陸におもちゃのプレゼントをしたのだ。

オセロ……ってところがヒロらしい。

「土曜参観のこと、お知らせノートに詳しく書いてあるから、家帰ったらよく見といて。月曜は代休だからな。間違えるなよ」

「え、そうなの?」

「お前なぁ、月初めに渡したお便りの予定カレンダーにも書いてあるだろうが。なくしたな」

「なっ……なくしてない。冷蔵庫のところによく目に付くようにマグネットで止めてあるもん。たまたま見落としたの」

……月曜は代休か。聞いておいて良かった。心の端っこでそう呟きながら、平静を装う。

だけど、何もかもお見通しだという顔で、疑わしそうな目つきを山崎君は流してくる。

「お前ってさ、子供と同じな。言い訳しながら目が泳いでる」

堪えきれず吹き出している。

屈託なく笑い転げる彼に、何だか、こっちまで可笑しくなってきてつられて笑ってしまう。

「さっちゃ~ん、帰ろっ」

陸が真剣な顔で、こっちに向かって走ってくるのが見えた。

「お、やべぇ、あんまりサチと仲良くしていると、6番目の椅子を剥奪されちまう」

すすっと、山崎君は横にずれて、あたしとの距離を離してみせた。

どんっ。

二人の間に陸は入り込んで腰を降ろすと、チラリと横目で山崎君を見た。

立場、わきまえているじゃん。

満足そうに意味ありげな視線を山崎君に向けている。

「せんせい、また明日ね」

元気な声で幼稚園児らしいご挨拶をすると、陸はあたしの手を引いた。

我が息子ながら、その代わり身の速さに舌を巻く。

「おう、車に気をつけろよ」

だけど、そう陸に応える山崎君も、いつの間にか生徒を見守る先生の眼差しに変わっていた。

翌日の土曜参観は、やはり父親達で溢れていた。いや、夫婦揃ってと言ったほうがいいかもしれない。

皆、ビデオやカメラをいそいそと、我が子に向けている。

昨夜、ユウちゃんは珍しく仕事のキリがつかず、帰宅しなかった。

もし、家に居たなら、土曜なのに制服を着ている陸を不思議に思うだろう。

ましてや、参観があると知ったなら、出席できない事に気を揉むに違いない。

だから昨夜の外泊は、ある意味ナイスタイミングだった。

陸は、両親が揃っていない事をどう思うのだろうか。

ただそれが気がかりだ。

「……あの、失礼ですけれど、桂木陸君のお母様でいらっしゃいますか?」

不意に隣に立つ女性から声を掛けられる。

品のいいベージュのスーツ。利発そうな美人だった。あ、ちょっとナオに似ているかも。

でも、今まで他のお母さん達と知り合う機会がなかったあたしとは初対面のはずだ。

「私、佐々木麻衣の母です。最近、よく陸君と一緒に遊んでいるみたいなんです。もう帰ってくると陸君の話ばっかりで……
保護者会でお見かけしないお顔なので、あ、この方が転校生の陸君のお母様だなって思って声を掛けてしまいました。突然にごめんなさいね」

「あ、いえ、嬉しいです。こちらこそよろしくお願い致します」

ペコリと頭を下げると、彼女の隣の男性も頭を下げてみせた。

あ、やっぱりここも、お父さんと来ているんだ。

「陸君、クラスで凄く人気があるみたいで、毎日争奪戦なんですって。
先日の遠足の集合写真で陸君拝見しましたけれど、本当に可愛らしいお顔してますよねぇ。
どこかのモデルクラブにでも所属されていらっしゃるんですか?」

とんでもないと、苦笑いしなからも、壇プロダクションの頭数に陸って入ってないよねぇと疑心暗鬼になる。

唇の端を上げて意味ありげに薄く笑うヒロの顔が何故かちらちらと頭の端をよぎった。

「ママ、パパぁ~」

園児の席から活発そうな女の子がひとり立ち上がり、にこやかに手を振ってくる。

「麻衣ちゃん、座って。ほらっ」

恥ずかしそうにナオ……いや、佐々木さんが娘を諭している。

あ、あの子が麻衣ちゃん。

三つ網のべっぴんさん、初めて登園した時に、陸の手を引いてウサギ小屋に連れていってくれた子だ。

「やだわ、あの子ったら」

佐々木さんが顔を赤らめてうつむいている。

「麻衣ちゃん、初めて登園した日に一番に陸に話し掛けてくれたんです。お陰様ですぐにクラスに馴染めたみたいで……ありがとうございました」

「あら、いえ、そんな。ちゃっかりしてるだけなのよ」

頭を下げるあたしに、彼女は顔を赤くして恐縮してみせた。

顔を見合わせてクスリと笑う。

あ、気が合うかも。そんな予感に嬉しさがわいてくる。

山崎君のギターに合わせて子供達が歌う。

小さなお口をいっぱいに開けて。

陸があたしの姿を認めると、嬉しそうに小さく手をふってくるのが見えた。

屈託のない笑顔に胸を撫でおろす。

子供に囲まれている山崎君は生き生きとしている。

何だか妙な縁だったけれど、山崎くんが陸の人生最初の先生で良かったな、なんて思ってみた。

そして、こんな場所にいるあたしはお母さんなんだなって、今更に噛みしめてみる。

一時間ほどで授業参観は終わり、子供達は外遊びをしに園庭に飛び出していった。

クラスの保護者会の為、ほんの少しお時間を頂けますかという山崎先生の呼び掛けに、親達は教室に残っている。

黒板に向かって山崎先生はこんな議題をチョークで綴り始めた。

“パパの会委員の選出について”

パパの会?

初めて目にする不思議な言葉。

「ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、コアラ組のパパの会委員でいらっしゃった溝口さんが、海外転勤の為に退園されました。
今日はお父様も沢山いらっしゃっているので、是非ともあとを引き継いで頂ける方の立候補を募りたいと思うのですが……」

山崎先生の呼びかけに、し……ん、と教室が静まり返る。

皆、ちょっと困った顔でチラチラと視線を泳がせている。

「……いや、ちょっと無理だって。手伝うくらいならできるけど部署も変わったばっかりだし委員までは引き受けられないよ」

隣の佐々木さんの旦那さんが、奥さんにこそこそと言い訳をしているのが小声で聞こえる。

そうだよね、きっと行事があるたびに大変なんだろうな。

「もちろん、お父様の場合は仕事の都合で委員になっても手伝えない事があるのは、園の方でも重々承知しています。
そういう時には担任の私や他のお父様達でフォローもしていきますので。大きな行儀は10月の運動会と、年末の餅つきでしょか……」

教室は変わらず重い空気で包まれている。

ちょっと、山崎君が可哀相になる。

あたしじゃまずいよね。

やっぱり、パパじゃないといけないんだよね。

「僕でよかったら、立候補させていただきます」

ドアの方で燐とした声が響いた。

ざわざわ。

皆の視線がいっせいに声の方角に向けられる。

ドアとは正反対の窓辺に立っていたあたしからはその姿が確認できない。

きっと気のせいだ、。まさか……ね。聞き覚えのある声色に感じた。

教室のざわめきは留まるばかりか、益々大きくなっていた。

声の主のほうを凝視していた山崎先生の視線が、何故かあたしのほうに流れてくる。

まさか、まさか。

身を乗り出すように覗き込んでいた佐々木さんが、目を丸くしてあたしを振り返った。

「桂木陸君……って?え、え?まさか、え~嘘っ、びっくりっ。そっくりなのに気が付かなかったわぁっ」

まさか、まさか。

人の群れの間から声の主が、山崎先生の方に向かって歩きはじめるのが見えた。

教室は嘘みたいにシンと静まり返り、誰もがその姿を息を呑んで見詰めている。

佐々木さんだけがきょろきょろと、向こうとあたしとを交互にせわしなく眺めている。

えっと、こういう時って何て言ったらいいんだろう。

慣れない言葉でどうにも照れてしまう。

えっとえっと、そうだ、こう言うんだよね。

消えそうな声で、彼女にだけ聞こえるように、そっと呟いてみる。

「あの、主人です……」

口にした途端、身体がかっと熱くなった。

照れてる場合じゃないだろう。

バクバクと心臓の鼓動が張り裂けんばかりに響いている。

黒板の前に辿り着き、にっこりと優雅に微笑むその姿に、お母さんたちの溜息が響く。

信じられない。これは夢なのだろうか。

どうして?

ねぇ、ユウちゃん、どうしてそんなところに立っているの?

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