頭に血がのぼるというよりは、全身が凍りつく感覚。
昔、岡部にキスされていたサチを見た時とはまた違った意味で言葉を失った。
今のサチは俺の妻な訳で……
他の男の腕の中にいるサチを、現実として受け止めることが出来ない。
変装用にかけたサングラスのせいで、やたら薄暗い視界。
鮮明とはいえなかったのは幸か不幸か……
「……っ、サチっ。サチっ。おいっ大丈夫か?」
男の慌てた声。サチの様子がおかしいことに気付く。
なのに、あまりの衝撃に身動きすら取れない。
そんな俺より先に、歩き始めたのは岡部だった。
「山崎先生、どうされました?」
落ち着き払った奴の声が、静まり返った待合室に響く。
……先生? 医者には見えねぇな。誰だよ岡部、その野郎お前の知り合いか?
「岡部……さん?あ、彼女、陸君の風邪がうつって熱があるみたいで……」
陸…… そっか、風邪だったんだ。
それはそれでほっと胸を撫で下ろす。
さっき、携帯で耳にしたナオの口調はすごく神妙で、病院を聞き出しここに駆けつけた。
今回撮影していた映画はロケが多く天候に左右される為、かなりの余裕を持ってスケ ジュールが組まれていた。
連日晴天に恵まれ一週間早まったクランクアップ。
サチを驚かせようなんて計画を練ったのは俺だ。
このサプライズにどんな顔をするかな……なんて、浮き足立つ思いで飛行機に飛び乗った。
だけど…… 部屋には誰も居なかった。
2時間ほど待ってみたが痺れを切らし、ナオとでも会っているのかと居場所を確認する為に彼女に電話を入れてみた。
“俺が帰っているの内緒にしてね”
もしも隣にサチが居たら、そう釘を刺そうかな、なんてお気楽に思っていた。
だが、電話に出たナオは、予想だにしない言葉を口にした。
『陸君が熱を出して……』
慌てて岡部のジャガーに乗り込んだのだ。
そして目にしてしまった。他の男に抱き締められているサチを……
「おい、ユウタ」
岡部の呼び掛けにはっと我に返る。
「サチ、診察室に連れて行くから」
いつの間にか、サチは岡部に抱き抱えられていた。
「……や、ヒロ、大丈夫……だから」
弱々しい口調で、サチは拒絶してみせた。
「結構な熱だ。医者に診てもらった方がいい」
返せよ、俺のさっちゃん。
もう、慣れ親しんだサチと岡部の距離でさえ、今は勘に障る。
「……俺が連れていく」
サチを支える岡部の腕に手を伸ばそうとした時だった。
「ゆ……うちゃん」
消えそうな声だった。泣いてるのかと思う程に。
「あのね、陸、お熱があって独りで寝ているの。302号室……行ってあげて」
「わかった。でも……さっちゃん」
「お部屋、山崎先生がわかるから。あのね、陸の幼稚園の担任の先生なの」
……担任。
目が合うと、奴は緊張した面持ちで頭を下げた。
「ね、ヒロ。あたし歩けるから……」
岡部の腕からすり抜けると、サチは小さく息をついた。
「……大丈夫か?とりあえず、この廊下の途中にナースセンターがあったから、そこに行ってみよう。 ユウタ、お前は先に先生と陸の所に行っていろ」
サチの背に手を添えると、岡部は薄暗い廊下へと彼女を導いた。
その後ろ姿を、山崎と名乗る男の視線がいつまでも追いかけるのを俺は見逃さなかった。
「……病室はこちらです」
歩き始めた奴の後を追う。
靴音が耳障りなほどに響いて聞こえた。
幼稚園の担任だって? じゃあ、さっきのは一体なんだっていうんだ。
“……っ、サチっ。サチっ。おいっ大丈夫か?”
最近の先生って、保護者を呼び捨てにするもんなのかね。
……な訳ねぇだろうが。
まじまじと後姿を眺める。
飛び掛って羽交い絞めにし、状況を白状させたい衝動を堪える。
落ち着け。 いくらなんでも大人気ないってもんだ。
案内された病室の中には看護婦が一人いた。
手にした書類に何か書き込むと、そっと陸のベッドの灯りを落した。
「だいぶ落ち着いてお熱も下がったみたいですね。お薬が効いているのでこのまま朝まで眠っちゃうと思いますから」
お世話になりますと頭を下げ、看護婦がドアの外に出て行くのを見送る。
陸を覗き見ると、すやすやと寝息をたてていた。
おでこに手を当ててみたが高い熱は感じられない。
たいした事がなくて良かったと胸を撫で下ろす。
寝顔はまだ赤ちゃんの頃とあまり変わらなく見えた。
顔を付き合わせるとサチの取り合いで睨みあっているけれど、寝ているときは天使だな。
苦笑いを噛み殺す。
「大事にならなくて良かった。……では、私はこれで失礼します」
男から長居は無用という空気が伝わってくる。
だけど、このまま返すわけにはいかない。
「先生、ばたばたしましてちゃんとご挨拶もしないままで失礼しました」
深々とかぶっていた帽子を取り、サングラスを外す。
素の自分をさらけ出して、真っ直ぐに奴を見据えてみた。
「え……」
奴は小さく呟いた。
「……マジ?」
取り繕った顔が、驚きで歪むのが見て取れた。
「桂木……って、えっ?サチの旦那って桂木ユウタっ? 信じられねっ」
おいおいおいおい。随分だな。
俺の目の前で、奥さん『サチ』呼ばわりかよ。
「……何だよアンタ、ただの担任……じゃないよな」
はっとした顔で奴……山崎は一瞬黙り込んだ。
陸に視線を流すと、「ベランダに出ましょうか」と呟くように口にした。
病室から出られるベランダは細長く、広いといえるものではなかった。
向かいに建つ病棟はどれも灯りを落していて、シンと静まり返った夜気が二人を包む。
東京の街では珍しい程にくっきりと光を放つ月が、山崎の瞳を照ら出していた。
先ほどの途惑いは嘘のように消え失せ、挑戦的に光ってさえ見える。
……上等じゃん。 ふつふつと身体の奥から湧き上がる闘争心。
けれども、そんな張り詰めた空気を、山崎は鼻先で軽く笑い飛ばした。
「昔っから、突拍子ない爆弾がサチのお得意だったけど……連続技の数々まいったよな」
昔から……?
「なんだよそれ、アンタ、サチの知り合いだったのか?」
ギシッ 胸ほどの高さの柵に手を伸ばし掴むと、鈍い音を小さく立てた。
嫌な予感で軋む心の内を代弁しているような響き。
「ここまできて、歯に衣を着せた物言いをしても仕方がないのではっきり言いいますが……」
どくんっ
続く言葉が、振り上げられた拳のように感じ、俺は無意識に唇を噛み締めていた 。
「サチ……彼女とは昔付き合っていました。まだハタチそこそこの子供みたいな頃ですけど」
……昔の恋人。 山崎をまじまじと見詰める。
背の高い男だった。
半袖のTシャツから覗く、筋肉質な腕。
俺を射抜く瞳は澄んでいて、真っ直ぐな眼差しがかえって子供っぽくさえ見える 。
昔の恋人……その存在に目くじらを立てるほど俺は狭くない。
ただ、胸をえぐったのは懐かしむような奴の眼差し。
その脳裏に浮かぶサチは、まだ俺に染められる前の彼女。
……己の前科を思い起こせばサチの昔話など可愛いものだと自分自身に繰り返す。
「それで?……随分とドラマチックな再会だったって訳だ」
動揺を微塵も見せないよう、おどけた口調で言葉を返した。
心の隙を見せてしまったら、負けのような気がした。
「本当に……まさかって驚いた。こんなシュチエーションで再会するなんて……」
ふっと、山崎は俺から視線を外した。
さわさわと吹き抜けていく風を凝視するよう、じっと暗がりに眼差しを落とすと 、おもむろにポツリと呟いた。
「アイツ綺麗になっちゃってビックリしましたよ」
月明かりが奴の寂しげな横顔を照らし出す。
なんだよ、そんな顔。
「リベンジでもしたいって訳?」
抑えきれず挑発的な口調になっちまう。
渡すものか。
サチの欠片ひとつ、分け与えるものなど無い。
「……そんな恐い顔で睨まなくてもさ、割り込む気なんてないですよ。初っぱなから陸君に釘刺されてるし」
「陸……?」
「子供は鋭いよね」
俺に視線を戻すと、山崎は思い出し笑いで口元を緩めてみせた。
「スクールバスが出てから彼女が迎えに来るまで陸君と二人きりの時間があるんだけど、その時言われたんだ……何もかもお見通しって顔で」
“センセイ、さっちゃんが好きなら順番守ってね”
「は?順番って」
「サチと仲良くできる優先順位があるらしくて、先生は六番目だからあんまりチャンスないよ?って釘刺されましたよ」
「順番?……ってどうせ自分が一番で俺は二番手なんだろう」
「……いや、父たんは四番目って言ってました」
はぁ?あのチビスカポンタン何言ってやがる。
「一番から三番は全部自分で、その次が父たんらしいです。五番目が岡部さん…… そのオシリでよければ俺も入れてくれるって言ってくれました」
俺の目の届かない所じゃ、言いたい放題だな。 聞き捨てならねぇ。
今度じっくりと指導しなくちゃな。
「……桂木ユウタが結婚って、何年か前に騒がれていたのは記憶にあるけど、まさかサチが相手だったなんて。俺、スポーツ番組くらいしか見ないから……。でも、アカデミーを獲った事くらい知ってますよ。……すごいですよね。貴方みたいな男に愛されれば、女も磨かれるってもんだ」
肩をすくめて奴はおどけてみせた。
「……だったら、さっきのは何なんだ。ちょっかい出すのやめてくんない」
あぁ、と、山崎は苦笑いした。
「陸君からはデコピンの刑だな。悪いけど内緒にしてください」
「……ざけんな」 再び張り詰めた空気が流れる。
「へぇ、海外行ったきり放リっぱなしかと思いきや、随分と入れ込んでるんだなサチに。クールなイメージと現物は違うもんですね」
吹き付けるような毒を含んだ台詞。
さっきまでのひょうひょうとした態度とは違い、山崎の態度はどこか苛立って見えた。
「アンタ、大した男だろう。自分の女房くらいちゃんと面倒みてくれよな」
「……どういう意味だ」
奴の意図が見えない。何を言いたいというのだ?
「アイツにさ……サチにさ、俺聞いたんだよね。今幸せなのかよって」
「えっ……」
ぎゅっと心臓を締め上げられた。
サチはなんて答えたというのだ?
「……幸せだってさ」
シアワセ…… 掲げられた答えに安堵の溜息をついた。
「怖いくらいに幸せだってさ」
ほら、何に怯えていたんだ。サチは、はっきりとコイツに言ったんだ。
今、隣にいるのが俺で後悔なんてしていないと……
「そんな台詞をさ、自分に言い聞かせるように泣きそうな顔で、俺に言うんだよ」
どくんっ。
「振られた男が頼める台詞じゃないけどさ…… あんな顔、させないでくれよな。アイツには似合わねぇよ」
ふっと、灯火が消えて目の前が真っ暗になる感覚。
悪い夢を見ている気がした。
「サチとの関係にリベンジが必要なのアンタじゃないの?」
吐き捨てるように言い放つと、山崎は脇を擦り抜け部屋を出て行った。