リベンジ-3

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小さな上履きが並んでいる。

貼り出された画用紙は、色とりどりのクレヨンで彩られている。

小さな椅子と机はまるでおままごと。

ここに足を踏み入れると、自分が巨人・ガリバーになった気がする。

ほんの数十分前は子供達で賑わっていたであろう園内が、ひっそりと静まり返っていた。

この幼稚園はスクールバスで通園する子供がほとんどだ。

直接送り迎えの為に足を運ぶ父兄はあまりいない。

たけど、マンションから五分の距離。バスを使うまでもない。

バスの出発する時間はバタバタと込み合っているので、少し時間をずらしてのお迎え。

通園3日目、お友達にも恵まれ、陸は元気に幼稚園生活を満喫している。

特に山崎君……いや、山崎先生の事は随分とお気に入りの様子だ。

“他のクラスと違って、陸のクラスはピアノだけじゃなくってギターでお歌を歌うんだよ”

そう言いながら、ギターを弾く山崎先生の真似をしてみせる。

そういえば、付き合っている頃によくバンドの練習とかって言っていたっけ。

演奏している姿なんて見たことがなかったけれど。

一度聞いてみたいなって言ったら、高校時代からの仲間とのお遊び、お披露目するもんでもないと苦笑いしていた。

ふぅん。

小さな観客がギターに合わせて歌ってくれるなんて素敵じゃない。

陸から話を聞いた時に、思わず含み笑いをしてしまった。

ちゃんと先生やってるんだなぁ。

廊下に連なる、色とりどりの教室の扉を眺めながら歩く。

陸はコアラ組。その赤い扉に手を掛ける。

かちん。かちん。

耳に届いたのは不思議な響き。

かちん。かちん。

陸と山崎君が、向かい合わせで椅子に座り、何かで遊んでいる。

あれって、……けん玉?

二人とも夢中で、教室の扉を開いたあたしに気付きもしない。

陸は、山崎君の様子を食い入るように眺めている。

かちん。かちん。

山崎君は器用にあちこちに玉を乗せながら、剣をくるくると回してみせる。

陸も、意を決したようにケン玉を振り回してみる。

がちっ。

なかなか思うようにはいかないようだ。

山崎君は、よく見ているよとジェスチャーすると、

今度はゆっくりとシンプルに窪んだ部分にかちりと玉を乗せてみせた。

再び陸はチャレンジしてみる。

狙いを定め、片側だけ上げた眉毛が真剣みを帯びている。

かちっ。

ふるふると玉は震えてみせたものの、窪みにちょこんと乗っかった。

「やたっ」

小さな手を得意気に高々と挙げてみせる。

くす。

くす。

思わず笑いが溢れてしまう。

声を辿るように山崎君が、こちらに視線を向けた。

よぉ、とでも言いたげな気さくな笑顔。

……が、一瞬にしてすっぅと真顔に引いていくのが見てとれた。

えっ?

彼の視線はあたしを通り過ぎていた。背後に気配を感じ振り向いてみる。

ヒッヒッ……

「ヒロだぁ~っ」

あたしより先にその名を口にしたのは陸だった。

びっくりした。いつの間に後ろに忍び寄っていたのだろう。

相変わらずトンビなんだから。

心臓を跳ね上げてもらったお礼に、心の中で毒付いてみる。

「陸君のお父様ですね。初めまして、担任の山崎です」

……山崎君が、山崎先生に変わった。

ヒロは軽く会釈すると、あたしの脇をすり抜け、二人に向かって歩いていく。

「陸がお世話になっております。私、岡部と申します」

岡部と、名乗られたのが意外だったのだろう。山崎君は一瞬、戸惑った顔を見せた。

「桂木の秘書をしております。こちらの園長とは私の叔父が懇意にさせて頂いておりまして、
そのご縁で無理をお願いして途中入園させて頂きました。
桂木が多忙なものですから、私が父親代理になることもあるかもしれません。
園長にはその旨ご了承下さっておりますので、どうぞよろしくお願い致します」

……ヒロには全く隙というものがない。けれども、さすがやり手マネージャー。

相手の懐に潜り込む術も心得ている。

「正直、担任が男性と聞いて最初は意外に思ったのですが、父親というのは母親に比べてやはり子供と過ごす時間が少ない。
幼稚園で男の先生と触れ合うのは、子供にとって必要な事なのだと先ほどの陸とのやり取りを見て悟らされました。
陸は貴方が担任で運がよかった」

「いや……そんな」

山崎君は照れ臭そうに恐縮していた。

 

ブルンッ。

深緑のジャガーは、調子の良い喉を鳴らし滑り出した。

行き先は陸のリクエストで動物園。

平日の午後という事もあって、園内はほとんど幼児連れの家族ばかり。

キリン、シマウマ、ダチョウにゾウ……

大きなカバが口を広げてお出迎えしてくれる。

陸はお気に入りを見つけると、わぁいと駆け寄っていく。

サル山だ。

「あれはさっちゃん。おんぶして貰っているのはボク」

きゃっきゃと、嬉しそうに指差してみせる。

「サチにおぶって貰うほど赤ちゃんじゃないだろう」

ヒロの毒舌は子供相手でも容赦ない。

だけど、陸はさらりと反撃してみせる。

「ほら、あそこでドテって座ってるボス猿、あれ、父たんね。
でね、その父たんの毛づくろいしているのが、ヒロ」」

ぶっ。

……笑っちゃいけない。笑っちゃいけない。

そう思えば思うほどに肩が震えてしまう。

「子猿に囲まれているの、あれ、山崎センセイ」

柵の周りをあちこち走り回りながら、陸の人間……いや猿ウォッチングは飽きることがない。

ヒロとあたしは傍のベンチに腰を下ろした。

「……何か言いたい事があるんじゃないのか」

煙草に火を付けながらヒロがピンポイントの探りを入れてくる。

やっぱり、顔に出ているのかな?

誤魔化しようもないし隠す気もない。だから単刀直入に答えを返す。

「……山崎先生、昔付き合っていた元彼だった」

へぇ、とヒロは驚いてみせた。でもそれはポーズだと思う。

だって、愉快そうに口元が上がっている。

「サチに元彼なんていたんだな」

「いるよ、それくらい」

三本指で足りるくらいだけどね……という事実はあえて口にしなかった。

「それで、別れた理由は?」

へ? それ聞かれるとは思わなかった。

理由はアレですよアレ。

でもさ、珍しい事じゃないみたい。意味はちょっと違うかもしれないけれど。

いつか読んだ美容院の雑誌にも書いてあったよ。別れの本音トップ3。

「……えっと、性の不一致」

ゲホッ。

ヒロがもうもうと煙を吐き出す。

「相変わらずだなサチ。傑作だお前」

声をあげてヒロは笑い出した。彼にしては珍しい感情表現。

……ウケ狙ったわけじゃないんですけど。

「だけど、こんな偶然びっくりしちゃった。どうしよう、ユウちゃんに言った方がいい……よね」

「わざわざ言う必要もないと思うが、サチが黙っていられないんだろう。性格上な。
だけど、今それを口にしたらどうなるか想像つくだろう?」

どうなるか……

「ユウちゃん、日本に飛んで帰ってくる」

自分自身に言い聞かせるように口にしてみる。わかってる、そんな事。

「今日は18日か。来月中ごろには帰国する。
今回は少しゆっくりできる予定だから、その時、話をしたほうが無難だな」

こくりと頷いた。ヒロの言う通りなのだ。

あと、ひと月。

あと、ひと月。

そうしたら、ユウちゃんは陸とあたしが待つ部屋に帰ってくる。

あと、ひと月。

あと、ひと月。

……目の前を通り過ぎていく親子をぼんやりと眺める。

父親に肩車された子供と、その隣を歩く母親。

2歳くらいだろうか?

陸があれくらいの頃、シンガポールの動物園に出掛けた事があった。

日本人の観光客がいた……という事も手伝って、気がついたファンにあっという間に取り囲まれた。

ちょうど、走り出した陸を追いかけて、ユウちゃんからは少し離れた場所にいた。

大々的にプロモートされた映画が大ヒットを収めた直後という事もあったのだろう。

日本人のみならず、いろいろな人が興味深々にユウちゃんを覗きに押し寄せた。

人の波に陸が突き飛ばされてしまった。

小さな体はあっという間に地面に投げ出された。

幸い大した怪我はしなかったが、あれ以来こういう人が集まる場所に、家族で出向いた事はない。

「……ち、……サチっ……」

はっと、我に返ると、隣に座るヒロがあたしを覗き込んでいた。

「どうした?」

ヒロに視線を流すと、通り過ぎていった親子の後姿が見えた。

ねぇヒロ、あたし最近少しおかしいの……

その言葉を飲み込んで、誤魔化すようにおどけてみせる。

「ふふっ」

「何だよ」

「あたし達ってきっと、周りからは普通の家族に見えるんだろうなぁって」

「サチが俺の嫁さんか?」

ヒロが口の端を上げて苦笑いをしている。

その様子に拗ねた素振りをしながら、あたしは再び遠ざかる親子をそっと眺めていた。

 

 

「急に頼んで悪かったな。準備係のお母さんが急に家の都合でこれなくなって……
ピンチヒッター、他に思い当たらなくてさ」

コアラ組の教室は、明日執り行われる夏祭りの準備でごった返している。

幼稚園は2週間前から夏休みに入っていた。

夏休み中に、一日だけ催される園行事。

その準備を手伝ってくれないかと山崎君から電話がかかってきたのは昼過ぎの事だ。

ちょうど一日前から泊まりに来たナオと、少し遅めのランチを作っていた。

折り返し電話をすると受話器を置いた。

「どうしたの?」

困った顔のあたしにナオが問い掛けてくる。

事情を説明すると、陸と仲良くデートしているから行ってきなさいよと彼女は言った。

「でも……」

「元彼……いや、山崎先生のお願いなんでしょう。本当に困っているんじゃない?それともアンタに会う口実だったりしてね」

「いや、そんなんじゃないと思うんだけど」

昨夜、ナオには山崎君に再会した話をした。

山崎君ってあの山崎君?と、面識のあるナオは相当驚いていた。

スポーツ少年がそのまま大きくなりましたって感じの子だったよねぇと懐かしそうに目を細める。

そして、初初しくて微笑ましいカップルだったよね……と、ポツリと漏らした。

は?初初しいって、あの頃あたしもう21歳だったけど……

唇を尖らせるあたしに、精神年齢のこと言ってるのよとナオは吹き出してみせた。

「サチ、そっちの看板にさ、金魚の絵描いてくれる?」

「はぁい。絵の具これ借りるね」

姿見鏡ほどの大きさの看板に、下絵無しで直接筆を滑らせる。

山崎君がいつの間にかボンボン作りの手を休め、感心した様子であたしの筆先を眺めている。

「陸君、言ってなかった?園の図書館でサチの絵本見つけた話」

「あ、うん。してた」

「俺、知らなかった。サチが絵本作家になっていたことなんて。
……知らないまま、子供達に何冊かお前の本、読んで聞かせたことあったよ」

「山崎君と会わなくなった少し後に、小さな絵本コンテストで賞をとったの。それがきっかけ」

「そっか……凄いな。人気あるんだぜサチの童話。また読んでってせがまれる事ある」

へぇ、嬉しい事言ってくれる。ちょっぴり感動してしまった。

プロとご存知なら益々、手を抜くわけにはいかないなぁと、気合を入れながら金魚の尾ひれを描く。

コアラ組の出し物は金魚すくい。

プラスティック製の金魚さんだけどね。

本物のテキヤの雰囲気をかもし出すよう、長細い水槽も設置された。

描きあがった看板に、ピンクのボンボンを飾りつける。

室内の装飾は午前中に山崎君が奮闘してほとんど終っていた。

看板を教室の扉脇に二人で運び、ほっとひと息つく。

職員室の冷蔵庫から拝借してきたと、山崎君は缶ジュースを手渡してくれた。

二人で床に腰を降ろしたまま並んで口をつける。

「助かったよ。陸君、友達に預けてまで手伝いに来てくれてありがとな」

「あ、ううん。陸も楽しみにしてるの夏祭り」

そっか、と、山崎君は缶を床にコトリと置いた。

「あのさ……」

ポツリと問い掛けられたものの、そこで言葉は途切れた。

だから「なぁに?」とあたしは彼の言葉を待つ。

「あのさ……お前さ……サチ、今幸せか?」

ためらったのはどうしてだろう?

答えはひとつだというのに……

あ、やっぱり、あたし少しおかしい。

自分自身に感じる違和感を振り払うように、はっきりと口にした。

「うん。恐いくらいに幸せ」

山崎君は、そう答えるあたしの様子をじっと見ていた。

心の内を見透かされているようで冷や汗をかきながら、にっこりと微笑んでみせる。

多分上手に出来ていたと思う。

だって「のろけられちまった」と、彼は肩をすくめてみせたのだから……

「サチの旦那ってすげぇいい男なんだろうなぁ。
だって岡部……だっけ秘書の人、あんな切れ者って雰囲気のヤツ部下にでるくらいいだもんな。
それにさ、陸君……めちゃくちゃ顔可愛いじゃん?きっと旦那、面構えも男前なんだろうよ」

そうだよ、って自慢気に返事を返す。

山崎君はごちそう様ですと笑ってみせた。

ピピピ、ピピピ。

携帯の電子音が響く。あたしのだ。

着信はナオからだった。

電話に出るなり、ナオは動揺した声で喋り始めた。

『あのさ、陸君熱があるみたいなんだよね』

「え、熱?」

『サチが出かけた後、二人で歩いて有栖川公園に行ったりしていたんだけど、
途中から何だか元気なくなってね……疲れちゃったのかなって帰ってきたのね。
部屋に着いたら、ソファーにもたれたまま眠っちゃって、あぁ、お昼寝したかったのかなって思ってたんだけど……
何だか、頬っぺが赤いからさ、おでこ触ってみたんだけど……熱いんだよね』

「わかった。すぐに帰るから」

プチっと携帯を切ったあたしに山崎君が「陸君調子悪いの?」と心配そうな眼差しを送ってくる。

「うん、ただの夏風邪だと思うんだけど……」

帰り支度を始めると、彼は「病院まで車で送るよ」と言った。

園が緊急時に指定している総合病院があるからと。

夕方の5時。普通では受付は終了している時間帯。

「園長から電話を入れておいて貰えば、診てくれるから」

山崎君は職員室に走っていった。

部屋に戻ると、ナオが心配そうな顔で玄関を開けてくれた。

陸の様子を伺うと、確かに体が茹るほどに熱い。

ちょっと、やばいかも……

心の中では動揺しながらも「子どもの熱って高いのよ、心配しないで」とナオには言い訳してみる。

「あたしも、病院一緒に行く」

「大丈夫、ほら、下で山崎君が車で待機してくれてるし。幼稚園指定の総合病院に連れて行ってくれるって。
それに、ナオ、今日は七時から彼と結婚式の打合せで、司会の人と待ち合わせだって言ってたじゃない。
スペアキー渡しておくから、ごめんね時間になったら締めていってもらってもいい?」

「でも……」と躊躇するナオに鍵を手渡す。

「また、電話する。今日は久しぶりに会ったのに、バタバタしてゴメンね。
招待客にあたしの名前入れるの忘れないでよね。あ、その前に彼に会わせて貰わなくちゃね」

ソファーで眠る陸を抱き上げる。

両手が塞がったあたしのおでこに、ナオが手の平を当ててくる。

「ねぇ、今、鍵貰う時に指、触ったけど……サチも熱あるんじゃない?」

「へ?」

大丈夫、大丈夫と親指を立て、5歳児を片腕で抱き上げる力強さをアピールしてみせる。

そういえば、少し喉が痛い。

あたしも陸から夏風邪を貰っちゃったのかもしれない。

「ヘルパンギーナですね」

白衣の首元に聴診器をかけながら医者はカルテにペンを走らせる。

「ヘルパ……?」

心配そうに聞き直すあたしに、先生は丁重に説明を添えてくれた。

「まぁ、感染症……幼児がもらいやすい夏風邪の一種です。喉の奥に水泡ができることが多いのですが、
拝見したところ、小さな水泡が数個出来ていますね。喉越しのいいものを与えてください」

夏風邪……という言葉に胸を撫で下ろす。変な病気じゃなくて良かった。

一緒に診察室に入ってくれた山崎君も、ほっとした顔を見せている。

「ただ……」

少し低い声色で先生は言葉を繋げた。

心臓がどくって跳ね上がる。

「結構熱が高くって、脱水症状をおこしてますね。
グッタリして、眠りつづけていて水分補給を口から摂取するのもままならない状態ですし
点滴を打った方がいいでしょう。ただ、お子さんなのでゆっくり落しますから時間がかかる。
様子も診たいし、一泊入院していってください」

白い壁に囲まれた個室。

陸の華奢な腕に、見慣れないチューブが繋げられている。

さっちゃんなんて呼ばれていたって、あたしはママだから、こんな夜はしっかりしなくちゃいけない。

シンガポールのお菓子の家で、この小さな手に求められる幸せを噛締めて暮らしてきた。

ユウちゃんが家に居られるわずかな時間は、凄く凄く貴重。

皆で一緒に過ごせる時間は、日常の煩わしさからは切り離し、ゆっくりと過ごせるように気を配った。

だけど、現実の育児はそんな甘いものじゃなくって……

訳がわからない事ばかり、不安でいっぱいだった。

小さい頃の陸は夜泣きに癇癪、後追い、ぐずりのオンパレード。

息をつく暇もなく、子ども独特の流行り病が次から次へと襲いかかる。

予防接種なんてしていたって、少し軽く済むだけで、病気にかかる時はかかるのだ。

水疱瘡におたふく風邪、嘔吐下痢、リンゴ病。

皆がかかる病気だとわかっていながらも、看病をしながら不安な夜を繰り返してきた。

子育てには、嬉しい事も沢山ある。

初めてよちよち歩きを踏み出した小さなあんよ。

たどたどしい口調で、覚えたての言葉を口にしてみせる微笑ましさ。

本当はいつだってユウちゃんも一緒に、陸の成長を見守って欲しかった……

わかっている。

ちゃんと、わかっている。

ユウちゃんは特別なんだって。

普通の旦那さんとは違うんだってちゃんとわかっている。

覚悟して結婚した。

たまにしか会えなくても、その存在は凄く凄く大きくって……

今でも変わらない。あたしの大事な人。

さっちゃんなんて呼ばれていたって、あたしはママだから、こんな夜はしっかりしなくちゃいけない。

ただ、こんな不安は久しぶりだから、今夜のあたしは少しどうかしている。

三時間かけて落した点滴が、終わりに近い。

ナースコールで呼んだ看護婦さんが、陸の腕から、そっとチューブを外した。

腕に貼り付けた白いバンソコウが痛々しい。

「サチ、すごく疲れた顔してる。俺が陸君見ててあげるから、そこのソファーに少し横になりなよ」

山崎君が囁くように落した声でそう言葉を掛けてくる。

ふわりと大きな手が伸び来て、あたしの髪を癒すように撫でる。

心の隙間に染み渡るような安堵感に躊躇する。

ヤメテ。アタシネ、最近オカシイノ…………

ガタンッ。

逃れるようにベッド脇のパイプ椅子から立ち上がり、病室を飛び出した。

灯りの落された病院の廊下。

背中に追いかけてく気配を感じながらも、足を止めることなく歩調を速める。

どこをどう歩いてきたのかなんて覚えていない。

気がついたら、人気のない、暗い待合室に辿り着いていた。

「サチっ」

手首を掴まれる。

大きな手。ユウちゃんとは違う感触……

そう、あたしの欲しい温もりとは違う温度。

離シテ、離シテ、離シテヨ……

ソンナ事ヲ比ベテイルダナンテ、ヤッパリ、アタシハドウカシテイル。

昔、ユウちゃんと出会うより昔……

付き合っていた頃の山崎君はこんな眼差しであたしの事を見詰めたりなんてしなかったのに。

恋人らしく手を繋いでなんてみたって、照れ臭そうに目を合ずに冗談ばっかり言っていたのに。

いつの間に、こんなに変わってしまったんだろう。

「な、大丈夫だから心配するな。……今夜は俺もついているから……」

助ケテ……助ケテ、ユウチャン。

アタシ、他ニ欲シイ物ナンテナイ。

そっと、彼の指で拭われて初めて、自分が泣いている事に気付く。

「……そんな不安そうな顔をするな」

あ……

抱き締められてしまった。大きな温もりの中に。

違うってわかっていても、抵抗もせず、身を委ねている自分がいた。

何かにしがみ付きたい衝動に、あがらう事が出来なかった。

“うん。恐いくらいに幸せ”

嘘じゃない。嘘じゃない。。

そう頭の中で繰り返す。

山崎君の腕の中でひと時の温もりを味わった次の瞬間、込み上げてきたのは底なしの空虚感だった。

固く目を閉じた。

大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと瞼を開く。

非常用の緑色の四角いランプが、山崎君の肩越し、遠目にぼんやりと映った。

……だって、まさか……

その緑色の灯りの下で、こちらを見詰める二つの人影。

「なぁ、サチ、お前、熱ないか?」

オブラートに包まれた声が耳元でぐわんぐわんと響く。

熱……?

じゃあ、きっとあれは幻なんだ。

熱が見せる幻。

陸も熱を出すと、よく変な寝言を言って、看病疲れのあたしを笑わせてくれたじゃない。

“さっちゃん。ねぇ、さっちゃん。
ボク、羽がはえて、空が飛べるようになったんだよ”

今あたしが目にしているのも、きっと錯覚に違いない。

熱に浮かされているだけでしょう?

だって、ユウちゃんがいる筈がない。

帰ってくるのは8月半ば……来週のはずだ。

だったら……

ねぇ、あんなに驚いた顔で、こっちを眺めているのはだぁれ?

「……っ、サチっ。サチっ。おいっ大丈夫か?」

山崎君の声が、もやがかかったように遠くに聞こえる。

体の力が、ふっと抜けて……背中に彼の手の平を感じた……

もう、このまま目覚めなければいいのに。

いつまでもいつまでも、目が覚めなければいいのに……

ユウチャン、アタシ本当ハネ寂シカッタ。

ズットズット……

意識が遠のいていく感覚を、ゆっくり、ゆっくりと味わいながら深い奈落へと堕ちていった。

 

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