「…何とかなりそうじゃん、岡部ちゃん」
深夜のスタジオの中、
「さっきの椅子に座ったカット、
「了解。そしたら後は朝一に鎌倉の海でロケして撮りは終了?」
「…カメラマンの阿部さんに礼を言えよ。
「阿部ちゃんに旨い寿司でもゴチしなくちゃな。
奮発するねぇと、岡部は薄く笑ってみせた。
ま、いいんじゃない?貴重な時間を絞り出してくれた訳だし。
金じゃ買えねぇよ、時間はさ。
家の冷蔵庫の側面には、幼稚園のプリントが、
給食の献立表。ベルマークの収集袋にクラスの緊急連絡網。
色とりどりのマグネットで留められたプリントは、
土曜参観があると目にしたのはこの撮影の直前、三日前だ。
わかってる。
仕事で都合がつかない俺に、
こんな風に今までどれくらい、彼女に気を遣わせてきた事か。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
“サチとの関係に、リベンジが必要なのアンタじゃないの”
アイツの捨て台詞が、耳にこびりついて離れやしねぇ。
その通りだ。
だけどまさか、岡部が既に先回りしていたとは…
「なぁ、これからの仕事の件…あの話、マジかよ」
「…任しておけと言っただろう」
紙コップのコーヒーを飲み干し、そっけなく奴は言い放った。
「だってよ…」
「前にも言ったはずだ。
全然気付かなかった。岡部がそんな根回しをしている事なんて。
コイツはいつだって涼しい顔をして、
俺が蹴つまずかないようにと、小石一つ見逃しはしない。
「岡部ってさ…」
言いかけて俺は、ふと言葉を途切れさせた。
聞く前から答えはわかっている気がしたのだ。
「なんだ…」
鋭いレーザービームが、眼鏡の奥から照射される。
濁した言葉の続きを言えと、問いただすような眼差し。
「お前、結婚とかしないの?」
ピクリと、奴の眉間に縦皺が刻まれる。
やべぇ、地雷を踏んだか?…だってよ。
「岡部ちゃんもさぁ、ずっと俺の面倒みるので手一杯でさ、
「しないさ」
即答だった。あまりの隙の無さにチャチをいれる余裕もない。
心の片隅で予測していた通りの返答。
何故わかったのか…なんて言われると、
「家庭を持つのなんて、俺には向いてない」
あまりのそっけない口調に、抗議する。
「…悪いもんじゃないと思うけど」
そうだなと、奴はいつもの薄ら笑いを浮かべた。
「お前ら三人見てたら、悪いもんじゃないなんてわかっているさ。
何言ってんだよ。欲してもいないくせに。
そう喉元まで出かかったが、その言葉は飲み込んだ。
ブルーアイズにショートボブ。岡部は外人の女に受けがいい。
だがお好みに添うような女達の誘いに、コイツは見向きもしない。
仕事に絡めたらどの程度価値がある相手か。
いいのに。
俺の事なんかよりもっと、自分の幸せの為に心を砕いて欲しい。
「お・か・べ~、チンタラ走ってるんじゃねぇよ。
朝の第三京浜は予想以上に混み合っていた。
朝陽を浴びながらの撮影。
通勤の時間帯に絡んだのが災いし、
「路肩走って覆面にでも捕まったら、
なんだよ。勘弁してくれよ。
あんな苦労して撮影を切り詰め、
一旦、マンションへ戻って着替えるのは諦めよう。
幼稚園に直行して飛び込めば、まだ間に合うかもしれない。
十時十五分。
岡部のジャガーは幼稚園の門戸前に滑り込んだ。
時間はだいぶ過ぎちまったが、廊下の窓から教室を覗き見ると、
山崎のギターに合わせて、
…随分、張り切ってるじゃん、山崎先生よ。
一番後ろのドアからそっと教室に潜り込む。
立ち見している保護者は皆、自分の子供の様子に気をとらわれ、
それにしても集まった父母の数は、
「じゃあ先生は、
わぁっと、蜘蛛の子を蹴散らすかのように、
山崎はチョークを持つと、黒板に慣れた仕草で書き込み始めた。
黒板にチョークって、懐かしいな、おい。
こうやって見てみると山崎ってさ、悪くはないよな。
子供に混じっても違和感がないくらい、
似てる…そういうところ、サチと同じだ。
“サチ…彼女とは昔付き合っていました”
気にするな。
“まだハタチそこそこの子供みたいな頃ですけど”
誰にだって過去はあるさ。
俺達夫婦だって、それなりに軌跡を刻んでいる。
出逢った頃、南国での日々、シンガポールの新婚時代。そして、
さっちゃん。
飾りっけなく、ありのみまま寛ぐ君が好き。
編みかけのみつあみで欠伸する大きな口。
お行儀悪く、人差し指で味見する仕草。
深夜、帰宅した俺を出迎えてくれるパジャマ姿。
俺だけが知っている日常の君。
出逢った日からずっと、その魅力に溺れっぱなし。
ねぇ、今日の君が一番好き。
昨日よりその前より、この瞬間に息づく君がいっそう愛しい。
俺だけのさっちゃん。(陸が邪魔するけど)
世界でたった一人しかいない、大事な大事な俺の奥さん。
覚えてるかな、エセクリスチャン岡部に誓ったあの言葉を…
…岡部。
そうだ、さっちゃん岡部がさ…
一生、頭上がんないよ、岡部ちゃんにはさ。
「今日はお父様も沢山いらっしゃっているので、
ん?考え事をしている間に教室がシンとした空気で包まれていた。
山崎が神妙な顔で、なにやら訴えている。
黒板の真ん中にぽつりと書かれた文字。
パパの会委員の選出って何だ?
「もちろん、
重い沈黙。あぁ、そういう事か。
俺がガキの頃にはなかったけどね、パパの会なんて。
あ、でもこれってさ…
頭の中で弾き出した結果は、即座に行動に表れた。
俺は高々と挙手すると、名乗りをあげた。
「僕でよかったら、立候補させていただきます」
皆の視線が一斉にこちらに注がれる。
俺の姿を認めると、示し合わせたかのような、同じリアクション。
目が点ってヤツ。
山崎と視線が絡んだ。
何だよ、アンタまでそんな顔。初対面じゃあるまいし。
じゃあ、ご挨拶に伺いましょうかね。
黒板に向かって歩くのなんて、何年ぶりだろう。
皆の視線が絡み付いてくる。
陸の父親として、ここは一発ビシっと決めないと。
山崎の脇に立ち、教室をぐるりと見回すと、
手を振りたくなる衝動をぐっと堪える。
第一印象は大事ってもんだ。
俺は年季の入ったウケのいい笑顔を浮かべ、軽く会釈した。
「初めまして、七月に途中入園しました桂木陸の父です。
ざわざわっ。
一瞬、どよめいたものの、俺が言葉を繋げようとすると、
「ずっと仕事の忙しさを言い訳にして、
だけど子育てなんていう時期は、人生の中でほんのひとときの、
幸い僕は仕事の量をコントロールできる職種です。
ちょうど来春まで休業を決めたところですし、
“お前が仕事をしやすい環境を考えている”
今日の写真集撮影を最後に、
世界に顔を売り込む時期は終わった。これからは、
「私事で申し訳ないですが、
もし、皆様にお許しを頂けるならば、是非やらせてください。
俺は深々と頭を下げた。
「いや、桂木さんそんな…」
山崎が困惑した様子で慌てた声を出した。
パチ…パチ…
ゆっくりと頭を上げる俺の耳に、遠慮がちな拍手が届く。
が、それは次の瞬間、沸き上がるような渦に変わった。
「あっあのっ、
サチの隣に立っているベージュのスーツ姿の女性が、
「あら、ウチだって…」
あちこちから、申し入れが殺到する。
なんだ、皆やる気あるんじゃん。
とりあえず、皆快く俺を認めてくれたようだ。
成り行きと勢いで立候補しちまったけれど、
参観が終わると、サチが俺の服の裾を引っ張って、
固く口を結び、思い詰めた顔。
様子がおかしい。
どうしたの?さっちゃん。
抜き打ちで参観に現れて、びっくりさせちゃったかな。
園庭で遊んでいた陸が、走り寄ってくる。
「もう少し遊んでもいい?」
珍しくサチにではなく、俺にそうねだってくる。
いいよって何の気なしに、そう答えようと思ったら…
「駄目よ。今日はもう帰るの」
とりつく間もない口調で、サチは陸の願いを退けた。
ぴくり。
陸の顔が一瞬にして曇り、ちらりと俺に目配せをよこす。
だけど、文句を返す事もなく、陸は黙って俺の隣を歩き始めた。
いっぱしに状況を判断していやがる。
サチの不穏な空気を察知し、
校門を出たところで、サチが重い口をひらいた。
「ヒロはマンションに居るの?」
「…あ、
「マンションの…じゃなくて?」
「間に合わなそうだったから、仕事先から直接ここに来たんだ」
初めて陸の幼稚園へ顔出しとあって、思わぬアクシデントに備え、
何かあったら、すぐに携帯に連絡を入れるようにと。
長い長いゆるやかな坂が続く、細めの二車線道路。
脇道のせいか、車の通りはほとんどない。
その道脇の小さな土地に、
岡部がジャガーのボディにもたれ、
俺達の姿を認めると、指先で弾いた煙草を踏みつけてみせた。
「父たん、ジュース買って」
「は?」
子供は突然、突拍子ない事を言う。
陸は、坂の少し上の方にある、
「ちょっと、行ってくるね」
そう声を掛けたものの聞こえなかったのか、
さっちゃん?
再び声をかけようとする俺の手を、陸はグイグイと引っ張った。
坂の上の自動販売機まで、子供ながらに強い力で、
販売機の傍には、
がっちゃちゃん、がっちゃっちゃんっ
販売機は2台連なっていて、
「父たん、それ、違うの。隣のオレンジのマークのやつっ」
好みのうるさい野郎だ。
がちゃんっ
出てきたペットボトルを差し出してやる。
「車でさっちゃんと飲む」
陸は受け取ると、嬉しそうに走り出した。
苦笑いを噛み殺しながら、その後姿を眺める。
ちゃっかりしていやがる。サチへご機嫌伺いの贈答品って訳か。
自分と岡部にと、オレは再び販売機に向かい缶コーヒーを選んだ。
キュルキュル…
コインを入れる俺の背後で、何かが通り過ぎていく気配がした。
え?
それは、さっきまで傍らに駐車してあった軽トラックだった。
信じられない。
サイドブレーキが甘いのか、
隣では何も気付かない作業員が一心不乱にジュースを機械に落とし
陸…。血の気が引いていくのがわかった。
歩道と車道など、境がない道路。
てくてくと、暢気に歩く陸の後ろ姿が先のほうに見えた。
チャリンッ
手の平のコインが道路に落ちる音を合図に、
軽トラックは少しずつ速度を上げていく。
陸との距離はどのくらいあるのだろう?
20メートル? …いやもう少し…
全速力で車の脇をすり抜け、その先を歩く陸に手を伸ばす。
守らなきゃいけない小さな背中…
抱き上げようとして、初めて俺は大きな誤算に気付いた。
コイツ…重っ。
予想外に陸はしっかりと成長していたって訳。
だけど、この状況でそれは命取りになる出来事で…
陸を抱きながら、
スローモーションのようにゆっくりと、
ザラリとした道路が、転がり始めた俺の身体を削り取っていく。
けれども、繭のように両腕で抱え込んだ陸を、
だって…だってよ。
かすり傷ひとつでも負わせたら、さっちゃんが悲しむだろう?
俺たちの大事な一粒種だ。
耳元で金属がぶつかり合うクラッシュ音が、
きーんと、鼓膜の奥で耳鳴りがしたと思った次の瞬間、
どくんっ、どくん。
己の鼓動が身体を揺さぶる振動を感じる。
まだ転がり続ける身体に食い込んでくる石ころの感覚さえも、
死ぬのかもしれない…
本能が、そう囁いてくる。
さっちゃん、ねぇさっちゃん。
俺が死んだら、君は悲しんでくれるのだろうか。
こんな事を不安に思うだなんて、俺はなんて小心者なのだろう。
サチと陸との血で結ばれた絶対的な絆。
それは、時に嫉妬するほどの羨ましさであった訳で…
俺なんてさ、三行半(みくだりはん)突き付けられたら、
なんて、儚い関係なんだ。
陸よりも愛して欲しいだなんて、
さっちゃん、ねぇ、さっちゃん。
俺が死んだら寂しいって思ってくれるよね?
女々しい自分に嫌気がさすよ。
だけど、今こんな瞬間に思わずにはいられない。
君は俺の為に、どんな涙を流してくれるのだろう。