着がえてソファに戻ると、サチはすでに寝息を立てていた。さっきも俺を寝かしつけようとしながら、結局は先に眠っちまっていたけど。いいんだ。こんなふうに至近距離でずっと彼女を眺めるなんて、眠ってくれてなきゃ出来ない事だから。
柔らかなウェーブを描く睫毛。もしも、それがゆっくりと持ち上げられたならば、サチの瞳には子供のような、力が宿り始める。何故かとにかく、その瞳に弄ばれちまう。当のご本人は、そんな気はさらさらないってとこが始末が悪い。パンツまで用意されて、パジャマのゴムを引っ張られた時は焦ったぜ。マジで。
初めての夜…だけど俺の事、男だって意識してないのかな? でも、今更知らないなんて言わせないよ。俺の気持ち。そっと塞いでしまおうか。さっきは唇の感触がお気に召さなかったらしいけど、特製アロエのリップのおかげで、コンディションは整えた。
あぁ、でもよく考えたら……サチは一人暮らしなんだ。風邪をうつしたら俺は彼女を看病できるのかよ? 岡部の女にするなんて、馬鹿げた偽装工作をしなきゃ、こうして会う事すらままならないというのに。ふつふつと沸き上がる欲望をぐっと堪える。心の中で葛藤しながら、穴が開くほどサチを眺めていると、そんな視線をうざそうに、彼女は寝返りを打った。
「んっ……」
ごろん。ソファベッド縁ぎりぎりのところに、横向きの姿勢でゆらゆらと揺れている。崖っぷちだ。ひやひやするぜ。背後からサチの腰にそっと腕を回して支えてみる。彼女の髪が鼻先をくすぐるとふわりと石鹸の香りがした。甘ったるい香水なんかじゃない、シンプルな石鹸の匂い。
サチに触れていると、包まれるような安堵感。瞼をそっと閉じると、眠気が襲ってきた。一瞬さっき欲情しちまった自分が、やたらちっぽけに感じて恥ずかしいったらありゃしねぇ。欲張るのはよそう。こんな風にただ寄り添って眠れる幸福感。強く抱き締めたら、壊れそうで……満たされれば失う恐怖感に怯えるなんてな。大事にしたい。彼女に感じるこんな満たされた想いを、俺も分け与えられる存在になりたい。
汗と一緒に熱は引いたようだ。もう少しこのまま……お願いだからこのままもう少しだけ眠らせてよ。どんな夢が見られるんだろう。
朝ですよ
ユウちゃん。
ユウちゃん。
……サチの声が聞こえる、あぁ、夢じゃないんだ。日射しが眩しくて、薄く瞼を開けてみると、俺を覗き込む人影がぼんやりと見える。おでこに添えられる手の感触。甘えるように上から自分の指を重ねて、そっと唇に寄せてみる。
「朝っぱらから、熱烈なご挨拶だな、ユウタ」
……。
がばっ
飛び起きて繋がれた指先を辿ると、ソファベッドに腰かけた岡部の手があった。
「べっ……岡部っ」
ひょこりとサチが奴の脇から、くすくすと笑いながら顔を覗かせている。
「朝ご飯出来てますよ。顔洗ってきて下さい」
岡部の指にキスしちまったっ。ざぶざぶと顔を洗いながら、寝ぼけた姿を見られた羞恥心がわきあがってくる。何であの野郎が俺より先に寝起きのサチに会っているんだよ。朝一番のおはようを言うのは、俺のはずなのに。
リビングに戻ると、テーブルに粥が用意されていた。鶏がらだしの香り…岡部特製の中国粥だな。
「わぁ、いい香り」
サチが嬉しそうに頬杖をついて運ばれてくる皿を覗き込んでいる。
「ねぇ、ヒロ。これって……おしんこ?」
「高菜みたいなもんだ。粥に乗せて食べると美味いから、好みで取って」
うっ、馴れねぇ。やっぱりサチの口からヒロなんて言葉。色事は無かったにしても初めての夜を過ごした後、三人でそろって朝ごはんって何かおかしくないか?
「あ、ユウちゃん。やっぱり顔色いいみたい。調子はどう?」
ぼんやりと扉の前で立ち尽くす俺に気付くと、サチは嬉しそうにそう言った。サチの視線が俺を捕らえている。ちょっとご機嫌斜めに傾いていた気分が、一瞬にして吹き飛ぶ感覚。俺って単純。
ふぅふぅ。
レンゲですくった粥を口をすぼめて、ふぅふぅしているサチが愛しくて仕方ない。
「サチは仕事の締め切りって迫っているのかな。もし、時間大丈夫ならコマーシャル撮影見学してみるのも、ユウタの仕事を知っておくいい機会かもれない」
はふはふと、忙しそうに口元を動かしながら、サチはそんな事を言い出した岡部をきょとんと見返している。俺だって岡部がそんな事を言い出すとは思いもよらなかったので、ちょっとびっくりした。
「そうですね、お昼過ぎくらいまでだったら、いいですよ。夕方から代々木で出版社の人と打ち合わせがあるから、それに間に合うように帰りますね」
……まじ? サチ来てくれるの? かっこいいトコ見せなくちゃ。うわ、なんかすごい気合い入ってきた。今日のCMは結構かっこいいんだ。
電車の中、ひとり音楽を聴くビジネスマン、これが俺の役どころ。
電車の走る音だけが響く中、控えめに踵でリズムを刻んでいる。 停車駅から次々と乗り込んで来るのは、ヘッドフォンをつけた、イカしたスーツ姿の女達。
フィルムは淡いセピア色。色付けされているのは、色とりどりのヘッドフォンと女達のルージュだけ。
椅子に座った乗客が呆然と眺める中、女達は華麗なヒップホップダンスを披露する。キャッチコピーはこうだ
『ハートのリズムが鳴り響く』
最後に電車の座席にほうり投げられたヘッドフォンのアップ。会社のロゴと、大音量で響きわたるラップの神様、JAY−Zの新譜。
スタジオには真っ二つに切断された電車のセットがふたつ置かれていた。 一両の車両を縦と横にと、見える断面が2種類。それぞれで撮ったカットを繋ぎあわせてひとつのダンスシーンを作るのだ。窓を流れていく外の風景は後から合成するらしい。たった20秒の為に何時間も費やして撮影する。ダンスのレッスンは映画の撮影の合間に三日間猛特訓した。
使うダンサーは皆、売れっ子アーティスト達がプロモーションビデオでよく使う選りすぐりの女達だ。日本が最先端の技術で世界へ挑む新型ヘッドフォンはどんな反響を呼ぶのだろう。そしてこのCMも、日本だけではなく世界中に流れるって訳だ。よく取れたよな、この仕事、さすが岡部様だぜ。
俺はぱりっとしたディオールのスーツに着がえると、セットの電車に乗り込んだ。一瞬ちらりとサチに視線を泳がす。スタジオの端っこで物珍しそうにこちらを伺うサチが居た。
見ててよ。ダンスだけは昔から岡部より一歩秀でている唯一の自慢だ。踊るのは好きだ。体をめいっぱい伸ばしてリズムに乗る開放感。役者の仕事に偏った今、ダンスを披露する機会もほとんどなくなった。でも周りのおネェチャン達には負けられないよな。一応俺がメインな訳だし。
スタジオの中をノリのいい曲が響き渡る。ふっと頭が白くなる感覚。なにも考えずリズムに身を任せるだけ。
ショータイムの幕が上がる。
……うわっ。俺、汗臭せぇ。二時間程の撮影のあと、昼食を兼ねた休憩に入った。スーツを脱ぎ捨て、Tシャツを羽織る。
「桂木さん、あちらのテーブルにお弁当用意してありますから」
スタッフが声をかけてきた。あっちのテーブル? 視線を流すとダンサーの女の子達がきゃあきゃあ騒ぎながら弁当が並ぶテーブルについている。ちらちらとこちらを伺う視線が刺さるのは気のせいじゃないらしい。
「あのさ、弁当三個こっちに持ってきてくれる? 冷たいお茶も一緒にさ」
「三個ですか? 岡部さんのと桂木さんのと……」
「その他に一個余分に頂戴」
スタッフは一瞬不思議そうな顔をしたが、わかりましたと走って取りに行った。あのテーブルでランチはちょっと勘弁だぜ。スタジオの裏に小さな池のある木陰のベンチ。そこでサチと弁当をつつくのも悪くない。カモフラージュの男、岡部も連れて行かなきゃいけないのが不本意ではあるが、仕方あるまい。
「岡部、裏で飯食おうぜ。あれ、サチは?」
「ちょっと散歩してくるって……すぐ戻るって言ってたから、外に出てよう」
倉庫のようなスタジオを出ると、蝉の鳴声が響いていた。むっとする残暑の熱気。同じようなスタジオが何棟か連なり、ここは現実離れした街のようだ。時代劇の撮影か、ちょんまげをかぶった男たちが汗を拭いながら通りすぎていく。
サチ……どこ? きょろきょろしていると、通りの向かいにもっときょろきょろとしている男が目に入る。膝をついて、植え込みの隙間にまで顔を突っ込んでいる。あれ、この男……。
「北原プロデューサー、何か捜し物ですか?」
そう話しかけたのは岡部だった。振り向いた男の顔……あぁ、本当だ。T局の北原さんだ。この人が膝をついてまで探し回る物ってなんだろう。いつも周りの人間は、彼にヘコヘコと頭を下げてご機嫌を伺っている。そんなちょっと気難しい大物プロデューサーといった印象だったので、意外な姿だった。
「あ、岡部君と桂木君、久しぶりだね。いや、あの、カナが見当たらなくて探しているんだ」
……カナ? 女とこの場所でかくれんぼでもしている訳じゃあるまいし。垣根の向こうにしゃがんで隠れていたりするのかよ。
「あ、ユウタじゃない〜」
背後から聞き覚えのある声が響いた。すげぇ、嫌な予感。振り返るとやはり、杏里が後光が差したような営業スマイルで立っていた。
「あ、T局の北原さん……ですよね。はじめまして、杏里でぇす。よろしくお願いしまぁす」
たっぷりとマスカラを乗せた睫毛をパチパチとアピールしながら、ちゃっかりとそんな挨拶をしてくる。北原さんは探し人に気を取られているらしく、 「あぁ」と気のない返事を返しただけだった。
ぴくり。杏里の眉間に、不服そうな縦皺が浮かび上がる。だけど、さすが北原さんにタンカを切るほど馬鹿じゃないらしい。そうだよな。この人に睨まれたら、芸能界で生きていくのは困難だ。それ程に各方面に影響力のある人物だった。
あ、あれっ。向こうから真っすぐこっちに向かって歩いてくるのサチじゃないか? あれ……サチだよな。抱いてる茶色いのなんだ? 犬? それにどうしちゃったの、すごい顔。それって、怒っているように見えるんだけど……わき目もふらずにこちらに突進してくる。俺? なんかした?
どくんっ。
どくんっ。
心臓がバクバクと不安な気持ちを脈打ち始めた。
「あのっ」
サチが声を掛けたのは杏里だった。四人の間を突然割って入ってきたサチに岡部も目を丸くしている。
「この子に謝ってください」
いつものほんわかしたサチからは、想像もつかないような強い口調。
「ちょっと突然なぁに? やだぁ怖いユウタぁ。あ、今夜あたりユウタの部屋から東京タワー見たいなぁ……寄ってもいい?」
はぁ? 何言ってやがる。支離滅裂だぜこの女。よりによってサチの前で……。
「ほらっ、ここ見て。砂が入ってこの子、目が赤くなってるでしょう。どうしてあんな意地悪するの?」
サチは隣に俺が居るの気付いてないんじゃないかと思うほどに、真っすぐ杏里だけを見据えている。
「……っるさいわね。犬が馬鹿なのは飼い主のせいみたいね。そいつはね、泥だらけの足であたしの靴を踏んだのよ。だから足で追い払っただけよ。砂なんて掛けてないわよ」
「嘘よっ。思いっきり足で蹴散らして、この子に砂を引っ掛けたじゃないの。本当は蹴飛ばすつもりだったんでしょう」
「言い掛かりはやめてよね。あんた、あたしを誰だと思っているのよっ」
興奮した杏里が、手のひらを振りかざすのが見えた。この女、凶暴なんだよな。この前のロケでもメイクの女の子を突き飛ばして騒ぎ起こしたくせによ。杏里の手首を掴もうと思ったら、俺より先に逞しい腕が彼女を捕らえていた。
「暴力はいけない。それに君に詫びを入れないといけないようだな。靴を汚して申し訳なかったね。その犬の飼い主は私なんだ」
サチをかばった腕は、北原さんだった。
「飼い主が馬鹿なもので、躾がなってなくてすまないね」
北原さんの問いかけに、杏里は口も利けないで青ざめている。そりゃそうだ。まぁ、AVなら、まだ需要があるかもな。結構、いいオッパイしてるしさ。
杏里は、おどおどと逃げるように去っていった。サチはまだ納得できないように、そのうしろ姿を睨みつけている。
「さっちゃん……弁当……おなか減ったでしょ?」
もしかしたら、こんなにも彼女のテンションを上げているのは空腹のせいもあるのかもしれないと、俺は怖々と声を掛けた。
「……あ、ユウちゃん。あれ? 撮影終わったの?」
「いや、今昼休み」
本当に俺の事なんて目に入っていなかったんだね。ちょっとばかり傷付いちゃったよ。
くう〜ん。サチに抱かれたミニチュアダックスフンドが、甘えるようにその胸に鼻先を擦りつけている。おいおい。俺だってまだなのに。いや、この犬がもしかして北原さんの探していたカナか? カナ……雌か。ならばまだ許せる。
「いや、カナが世話をかけて申し訳なかったね。君、桂木君の知り合いかな?」
「あ、私の連れです。北原さん」
ずいっと、岡部が一歩前に出る。連れって……何だよ岡部。連れってよ。
「カナちゃんっていうんですか? ふふっ。可愛い名前ですね」
いつの間にかサチはいつもの穏やかな雰囲気に戻っていた。
「はい、怯えちゃって可哀相だったんですよ。もう迷子にさせちゃ駄目ですよ」
犬を渡しながら、サチはさりげなく北原さんに説教をした。この人がサチみたいな若い女の子に説教されるなんて前代未聞だ。
「あ、カナが君の服を泥で汚しちゃったみたいだな」
サチは胸元の泥に目をやると、いつもの調子で 「あ、気にしないで下さい、これくらい」と言いながら、豪快にパンパンとはたいてみせた。
「いやいや、勇敢な子だね。あの噂の杏里に喧嘩を売るなんて。岡部君、紹介してよ」
「イラストレーターで絵本作家の榎本サチです。今日は撮影所の見学に連れてきてたんですよ。創作の刺激になるかなという事で」
「あ、そう。絵本作家さんかぁ、なかなか面白いジャンルだね」
目を細めて、彼はサチを感心した様子で眺めている。
「あ、あ〜っ」
突然、サチが腕時計を見ながら突拍子ない声をあげた。
ぱちぱち。
岡部と北原さんが、並んで驚いたように瞬きするのが見える。多分俺も。
「二時っ! あたし、そろそろ帰りますね。一度家に帰って原稿持ってから出かけなきゃいけないんで……」
「あ、帰るの? お家は何処かな、良かったら私も帰宅するところだから今日のお礼に送らせてくださいよ、構わないかな岡部君」
「サチは駒澤なんですよ。北原さんは…確か成城でしたね」
「なんだ、結構近いじゃない。じゃあ、弁当は私の車の中で食べればいい」
状況の変化に頭が回らないぜ。北原さんがサチを送るってさ……おいおい、このおやじ大丈夫なのかよっ?
とんでもないと、サチは遠慮している。
「いや、確かにカナは怯えきってるみたいで、まだ震えているようだ。もし、迷惑でなければ、車で膝の上に乗せていてくれると助かるんだけどね。あ、いやもちろんカナは君の弁当を食べたりなんてしないから安心して」
くすくすと、サチは笑うと、じゃあと頭を下げた。
へ? 帰っちゃうの? おい、岡部。本当にこのおっさん大丈夫かよ。俺は、視線でそう岡部に訴えかけた。
「北原さん、叔父貴が久しぶりにゴルフでご一緒したいと言ってましたよ。今日お会いした事、伝えておきますね」
「あぁ、正月以来だな、檀社長に会ったのは。甥っ子の君がやり手で過ぎて、出る幕がないってぼやいていたよ」
岡部は弁当とお茶のペットボトルを一つサチに渡すと、 「夜、電話するから」とサチを送り出した。
「じゃあ、北原さん、彼女をお任せしますね」
「いや、こちらこそ帰り道、話し相手が出来て嬉しいよ。娘と同じくらいかな。あ、桂木君もまた局でね。失礼するよ」
既に、なにやらサチと北原さんは犬の話題で盛り上がっているようだ。俺は唖然と見送るしかなかった。声を落として岡部が俺に耳打ちする。
「大丈夫だ。あの人、社長の三十年来の友人だし、サチに手を出すような馬鹿じゃない」
「あ、ユウちゃん」
ニ、三歩歩いた所でおもむろにサチが振り返った。
「ダ・ン・ス、めちゃくちゃカッコ良かった〜。撮影頑張ってね」
小さく手を振るサチに、俺は手を降り返した。あんまりにもぶんぶん振りすぎて、岡部に止められたくらいだ。朝、俺の腕の中で眠っていたなんて……嘘みたいだ。俺、しばらくあのソファーベットで眠ろうかな。
サチの後姿を名残惜しみながら、そんな事をぼんやりと思ってみた。
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