「駒沢は大きい公園があるから、犬にはいい環境だよね」
北原さんのベンツは滑るように進む。シートは驚くほどにゆったりとしていて、カナはお行儀よくあたしの隣でお昼寝をしている。遠慮しないでと勧められたとはいえ、人様の車でちゃっかりお弁当を頬張っているあたしって……中華料理のお弁当は、大きな海老のチリソースなんかも入っていて味もよろしく文句なしだ。
「あぁ、華花飯店のロケ弁か。結構イケるでしょ」
口一杯に頬張って、言葉が出ないので、あたしはこくこくと頷いてみせた。赤信号で停止すると、北原さんがじっとあたしの様子を伺っている視線を感じる。
「おひとついかがですか?」
一番大きな海老をお箸でつまんで、そっと持ち上げると、いやいやと彼は首を振って遠慮した。いいの? 美味しいのに。
「ごめん、ごめん。俺が見てたら食べ辛いよな。気にしないでどんどん食べて」
「はぁ」
じゃあ、と、遠慮しないであたしは箸をすすめる。
「いや、実は娘の結婚式でハワイに行っていてね、今朝、成田に着いたんだよ。カナを人に預けていたので受け取って、ちょっとだけヤボ用でスタジオに寄ったんだが……」
「あら、娘さんの結婚式、それはおめでとうございます」
「ありがとう」と答えながら、北原さんはちょっと寂しそうに笑てみせた。
ハワイか、そういえば綺麗に日焼けしている。信号が青に変わって、北原さんは視線を前方に移した。あぁ、五十代くらいかな。自分の親とそんなに変わらない年代なのかもしれないけれど、業界人らしい風貌が、彼を若々しく見せている。
「でも、花嫁の父としてはやっぱり取られちゃったみたいな……複雑な心境もあるんでしょうね」
「う〜ん、そうだね。いや、まぁ安心もしたよ。なんせ結構突拍子ない娘でね」
安心したなんて言いながらも、前を見据える横顔は寂しげだった。少し目を細めている瞼の奥には、きっと娘さんの花嫁姿が映っているんだろうな。
「……君に似てるよ」
「は?」
「結婚した娘、君に似ている……その突拍子ないところ」
あたし今日、この人の前で何かやらかしたっけ? お得意のトランス状態もお披露目した記憶はない。なんて答えていいやら、曖昧に笑って誤魔化してみる。
「でも、まぁ、どうして今時の子はわざわざハワイなんかで式を挙げたがるのかね、サチさんもそういうのやっぱり憧れる?」
「あたしですか? う〜ん」
「君だったら、どんな結婚式をしたいって思うのかな?」
もぐもぐ。最後の一口を噛み締めながら、あたしは考えた。どんな結婚式……かぁ。
「あのですね、百帖くらいの和室の大広間に、こう、向かい合わせにずらりと朱色の漆塗りの御膳なんか並べるんですよ。ほら、足の付いた御膳」
そう話し始めたあたしに、北原さんは興味深そうに耳を傾けてきた。
「それでね、黒打掛の花嫁衣裳を着て、大きな綿帽子をかぶるんです」
「ほう、いいねぇ厳かな感じで」
「イメージはこう、やくざの結婚式っていうか……」
「やくざっ?」
「だって、ずらっと和装の人達が並ぶのってちょっとそういう雰囲気じゃないですか。畳の部屋に、朱、黒、白……色合いが素敵ですよね」
「う〜ん。君は面白い感性を持っているね。いや、感心したよ。結婚式をそんな風に色でイメージするなんてさすが絵本作家さんだね」
「え……そうですか?」
うんうん、と、妙に納得したように北原さんはしきりに頷いている。
「その綿帽子をかぶったサチさんの隣に座る男は、岡部君なのかな?」
へ? がさがさと食べ終えた弁当の包みを片付けていた手がぴたりと止まってしまった。その時、あたしの隣に座る男の人……。
「いや、もしかしたら桂木君かな?」
かっくん、かっくん。
普通に振舞おうと思えばそうするほどに、自分の仕草が不自然になるのがわかる。桂木さんのこと、ばれたら大変な事になるんだよね。
「いやいや、無粋な詮索をした。お詫びするよ。ワイドショー的にはいいネタなんだろうけど僕の専門じゃない」
なだめるように、北原さんはポンポンとあたしの肩を軽く叩いた。
「でも、さっきの桂木君は面白かったね。角を曲がる時にチラッと見たら、まだ手を振っているんだもの、酸いも甘いも知り尽くした大人の男ってイメージだったけど、いいねぇ、あんな彼も」
く〜ん。あ、カナがお目覚めだ。グッドタイミングだよ。甘えてくるカナを膝の上に乗せる。話題をさりげなく、今話題の駒沢公園にあるドッグランの事なんかに移してみる。愛犬家達が集う、公園内にある犬専門の社交場だ。北原さんは興味深そうに聞き入っている。だけど、あたしの頭の中にはふと、さっきの女の子の台詞がよぎっていた。
“今夜あたりユウタの部屋から東京タワー見たいなぁ…”
杏里……あぁ、あの子だ。天使のような笑顔でハンバーガショップの入口に貼り付けられたポスター。沢山の女の子に囲まれて、息を呑むような華麗なステップを踏んでいた彼を思い出す。ユウちゃん……かぁ……。あの東京タワーを眺める女の子が他に居たって、当たり前だと思う。でもね……。
昨夜の抱き締められた温もり、暖かかったな。あたしだって、二十三歳だ。子供じゃない。ベッドの温度を共有する恋人がいた事だってあった。男の人の気まぐれに、傷付いたことだってあるのだ。だけど……。
やっぱり彼は大した役者さんなんだろうなぁ。ずっと、その胸にもたれ掛かってもいいかなって勘違いしちゃったもの。桂木さん、もしかしたらあの時困っていたんだろうな。自分の恋人があんな風に怒られたら、きっといい気持ちはしない筈だ。
ゴメンネ。
あとでメール送ろうかな。
ゴメンネ。
あぁ、でもそのひと言だけしか思い浮かばないや。……あたしって、馬鹿だなぁ。カナの頭を撫でながら瞼を閉じると、橙色の東京タワーがぼんやりと浮かんで消えた。
「サチ、アンタ男出来たんじゃない?」
日曜日、代官山のカフェのテラス。アイスコーヒーに浮かぶ氷をストローで突っつきながら、ナオは疑い深そうに突然そう問いかけてきた。
「男?」
「ふふん。ごまかしちゃって。ちょっと雰囲気変わったかな〜て女の勘なのだ」
あたし、何にも変わってないと思うんだけど……。
「自分じゃよくわかんないよ」
本当は、色々ナオに聞いて欲しいのだけれど、桂木ユウタの名前など出せるはずもない。いや、頭がおかしくなったのかと心配されるのがオチだ。
「まぁ、サチ相手だったら男も調子狂うだろうなぁ」
名前さえ出さなきゃ、いいかな?
「……あのね」
ナオは高校の頃からいつだって男の子に囲まれていた。ボーイフレンドも沢山いる。社会人になってからは十歳も年上の彼が居たこともあるのだ。今は二つ年下の大学生と付き合っている。あたしと違い、経験豊富な恋多き女だ。
「あのね、の続きを言いなさいよ。恋バナ始めるのずっと待ってるんだから」
「……あのね、ウルトラヘビー級にかっこいい人から一目惚れしたって告白されたの。だけどね、彼のまわりには綺麗な女の人がいっぱいいて、どうしてあたしなんかに興味あるのか不思議なんだよね」
ナオがストローで吸い上げたアイスコーヒーが、綱引きみたいにストローの中をいったりきたりしている。
「すごいノロケ。サチからそんな台詞を聞く日が来るとは」
「え〜ノロケじゃないよぉ。遊ばれてるのかもしれないしさ」
「アンタって、遊びの対象にならないと思うんだけど」
「えっ、そうなの?」
「ウルトラヘビー級にいい男ねぇ……」
くすくすとおかしそうにナオは笑い出した。
「ひっどい。笑うなんて」
「ごめん、悪気はないのよ。そのいい男がサチのペースに振り回されている様子が目に浮かぶなぁ」
「振り回してなんてないもの。仕事が忙しくてめったに会えない人だし、あたしが合わせてるの」
ナオがそっと髪をかきあげる。色っぽいなぁと、感心する。高校の時から大人びた子だった。だけど、いつの間にこんな、本物の大人の女の雰囲気を当たり前に身に付けちゃったんだろう。
「……で、サチはどうなの」
「なにが?」
「アンタはその人の事どう思っているの? それが一番大事なことなんじゃないの」
あたしがどう思っているか……あぁ、そうだよね。そんな大事なことなのに、深く考えたことなかった。
「……で、もう寝たの?」
「うん。おととい、彼の部屋に泊まったもの」
「へぇっ。アンタにしちゃ珍しく色っぽい話」
「だって、すごい熱をだしちゃってね、ほっとけなくてさ」
あれ? ナオが怪訝そうな視線を向けてくる。あたし、何か変なこと言ったかな。
「ねぇ……寝たってまさか、ただ看病がてら隣に眠っただけだなんて言わないよね」
「えっ、そうだけど。だって病人だもん」
黙り込んだナオが指で目もとを拭った。
「大丈夫?」
むせているのかと思い心配しながらそっとのぞき込むと、ナオは小さく肩を震わせて、笑いを堪えていた。
「ふっ、くっ……おかしいったら……信じられないサチって」
ナオは両手で顔を覆うと、笑いが収まらないといった様子で小刻みに肩を揺らしている。
なぁに? あたし、そんなに変かな。
「はぁっ苦しっ」
あたしのジンジャエールに指を伸ばすと、ナオはごくごくとそれを飲み干した。
「ふうっ、大変だねぇ。そのウルトラスペシャルな彼……まぁ、キスくらいはしたの?」
「……したよ。えっとね三回した」
「そっか」
それで? と言いたげな視線が投げられる。
「あのね、なんかこう、すごく暖かいの」
それで? と、まだナオは続きを求める視線を向けてくる。
「勘違いかもしれないんだけど、あんな風にすっぽり包まれるのって居心地がよくってね、ほんわかしちゃうの」
ナオは片手で頬杖をついて、じっと見つめてくる。からかうような眼差しは消えていて、優しく微笑している。
「あたしは、わかる気がする。彼がアンタに惹かれるの」
「えっどうして? どんなとこ?」
小さなメニューを取って広げると、ナオは 「内緒」って小さく呟いた。
「上手く言えないし、まぁいいんじゃない、フィーリングって大事だよね」
フィーリング? またナオがなんだか難しいこと言ってるよ。でも、人に話してみて、改めて気付いた。彼を……ユウちゃんを思い出すと、心がほんわか柔らかくなる。
あ、いいなぁ。この感覚。気にしても仕方ないから考えるのは止めよう。
“今夜あたり、ユウタの部屋の東京タワーが見たいなぁ”
あの綺麗な子も同じなんだ。彼の腕にもたれかかる心地よさを、味わいたいだけなのだ。
彼の一番じゃなくてもいいや。気紛れに腕を伸ばされたその時に、あたしも会いたいと思えるならいいじゃないかと思う。この二日ほど、なんだか胸の奥に引っ掛かっていたもやもやが晴れていく感覚。
「ほら、ケーキ選びなさいよ。今日はここ、奢ったげる」
ひらひらと、スイーツのメニューであたしをあおぎながら、ナオがそうせかしてくる。
「え、なんで?」
「遅れながらほら、桂木ユウタのサイン本のお礼」
「あぁ、いいよ。あんな事くらい」
「いいから。今日はなんだかサチにご馳走したい気分なんだわ。めったにないわよ。ほら、選んでっ飲み物も」
……うわ、美味しそう。ちらりと、スイーツメニューの写真が目に入ってしまえば、その誘惑に勝てるわけがない。
「わぁ、どれもそそられる。タルトもいいなぁ」
ぴぴっ。
短い電子音と共に、ぶるんぶるんとジーパンのポケットの携帯電話が震え出した。メールかなと思ったけれど、震え続ける振動が電話の着信を伝えてくる。岡部……ヒロからだった。
「はい」
『あ、今話せるかな?』
「あ……」
ちらりと顔を上げると、ナオがどうぞ遠慮しないでと目で合図を送りながら、化粧室に消えていった。
「あ、はい大丈夫ですよ」
『今日、ユウタから連絡はいってないかな?』
「あ、夕べ、メールでやりとりしたけど」
『……その時何かあった?』
何か?
「あぁ、あの、今日は友達と代官山のカフェでランチをする約束があるんだとか、他愛もない内容ですけど……」
そうだ。あと、最後にごめんねって書いたんだ。あの子の事怒ったりしてごめんねって……なんだか言い出しにくくて今更だったけど、昨日のメールにそう書いた。ヒロの『何かあった?』ってその事かな。いや、別に『あった』って程の事でもないけど。あたし、謝っただけだし。でも……。
ざわざわっ。店の空気が変わる気配がする。皆の視線を辿ると、テラスの斜め前にある信号の向こう。反対の車線の歩道に女の子の人だかりが出来ている。その子達から、頭ひとつ飛び出している人影。サングラスをかけているけれど、あれはまぎれもなく……。
「あっあ〜」
受話器に投げかけるにこの声は、大きすぎただろうか。叫んだ後、やばいと思った。
『そこにいるのか? ユウタ』
「あっ……車道を挟んだ反対の歩道に……」
『今、そっちに向かうから。代官山なら十分かからないで着くと思う。そこ、どこいら辺?』
通りの名を告げると、ぷちっと電話は切れた。意外にも落ち着き払ったヒロの声がいつまでも耳に残った。
「サチっサチっサチっ! ユウタだよ」
化粧室の扉からテーブルに戻ったナオが、興奮した声でそう叫びながら、あたしの腕を揺さぶる。
“身ぐるみ剥がされちゃうんだ”
群がる女の子達は皆、彼に少しでも触れてみたいのだろう。腕を伸ばして握手を求めたり服を引っ張ったり、とにかく揉みくちゃだ。順番争いに喧嘩まで始まる始末。
がたんっ。無意識にあたしは立ち上がっていた。道行く人は皆、立ち止まり、スマホのカメラを向けている。もう、一歩も身動きが取れずに困り果てている様子が伺える。
「すごいねぇ、でも、休日の代官山なんかに桂木ユウタが歩いてたりするなんて、驚きだね」
ナオが興奮し、うわずった声色で、そう話しかけてくる。
どうして? ヒロが探しているって事は仕事を抜け出して来たのだろうか。
片方羽の折れた天使。
前に彼がそう語った言葉の意味が、少し理解できる気がした。目の前の光景は、彼の人気を物語っているのだろう。だけど……。
“俺、自由に憧れる”
彼がトップスターの座と引き換えにした代償を目の前に突きつけられた気がした。
「……可哀想」
唖然とその情景を眺めるしかなかった。目の前の車道に、見慣れた車が止まるのが見えた。あ……ヒロだ。左ハンドルの運転席の扉を開けて出てきた彼は、偶然にもあたし達がいるカフェのテラス前を横切って歩いて行った。
「岡部さんっ」
咄嗟にあたしはそう叫んでいた。ヒロは一瞬こちらに視線を流すと、肩をすくめておどけてみせた。
「ユウタ! 車に乗れっ」
興奮した女の子の甲高い声の中で、低いヒロの声は存在感を持って響き渡った。驚いたようにユウちゃんが振り向いた。反対車線の歩道から、ゴールにむかうバスケットボールの選手のようにするすると人込みを擦り抜けて、こちらに向かって走ってくるのが見える。そして、滑り込むように、車に乗り込んだ。
バタンッ。あまりの早業に呆気に取られていたこちらの歩道の女の子達が、我に返ったように車に群がり始めた。二回ほど、女の子達に注意をうながすクラクションをならすと、車はゆっくりと走り始めた。ヒロが教えたのだろうか。後ろの座席に座っているユウちゃんが、じっとこちらを見つめながら通りすぎていく。疲れ果てた顔
「サチが声掛けた人、ユウタのマネージャーになったヒロだよね? ユウタも、サチに気づいて今こっち見てたでしょ。本の仕事、一緒にしたんだもんね。あの二人と本当に顔見知りなんだぁ、うわぁ、なんか信じられない」
ぶるんぶるんっ。握りしめた携帯が振動を伝えてくる。ユウちゃんからの電話だった。車はまだ、視界に入る距離で、ゆっくりと遠のいていく。
『探してたのにさ、こんな近くにいるのに気づかなかったよ。驚かせてごめんね』
受話越しの声は、さっきの見せた表情とは裏腹に明るいものだった。いや、無理に明るく振る舞った声。
『サッちゃんに会いたくてさぁ……』
ため息みたいに小さな声が、耳元に響く。
『顔見て、ちゃんと話したかったんだよね。杏里の事……俺、あの子とは今は付き合ってなんていないから。変な勘違いさせてごめんね』
『……うん』
その一言しか言えなかった。また夜に連絡するねと電話は切れた。
プープーッ。
携帯電話の向こうで響く電子音から、耳を離すことが出来なかった。
“サッちゃんに会いたくてさぁ……”
「サチ、どうしたの? 大丈夫?」
心配そうにナオが覗き込んでくる。
「ちょっ……と、サチっ」
あぁ、絶対変だと思われる。だけど涙を堪える事が出来なかった。何でかな? 胸が痛いよ。堪えれば堪えるほどに、小さな嗚咽が喉を押し上げる。
「……ごめっ……何でもないから……」
ナオはこんなあたしを問いただす事もなく、黙って落ち着くまで付き合ってくれた。
「彼と電話で何かあった? 男と付き合うと色々あるよね」
慰めるように、優しく髪を撫でてくれた。
「あたしが男と揉めたりすると、いつもサチが話し聞いてくれたもんね。ま、愚痴くらいいつでも受け付けるからさ、気が向いたら話しなよね。サチの恋バナならいくらでも聞くよ」
ごめん。本当の事、ちゃんと話せなくてごめんね。
優しい慰めに、落ち着いた涙が再び溢れてきた。
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