びっくりしたぜ……岡部の野郎が急に二人揃って話があるから、サチを連れて帰るなんてメールを見た時にはよ。何だよ急に改まって。
昼間からアイツ、社長と随分話し込んでいたし、しかも俺に今日はもういいから先に帰れなんて事務所から追い出したくせに。今夜はどこにも出かけるなよと、ご丁寧に釘を刺してくださった。
だけど今になって、サチまで一緒に話しだなんて、まさか、社長命令で別れろなんて言い出すんじゃないだろうな? どっちにしても聞く耳持たないけどよ。そわそわと落ち着かず、部屋をウロウロと歩き回る。
サチ……その名が頭をよぎると、不思議と不安よりもこれから会える喜びがじわじわと俺を包み込む。ま、いいか、サッちゃんに会えるなら。時計は夜の十時半を回るところだ。サッちゃん、夕ご飯ちゃんと食べたのかな? お腹減らしてたら俺、夜食を作ってあげよう。 簡単なパスタぐらいなら材料が揃っている。
キッチンの棚をチェックしてると、部屋の呼び鈴が鳴った。モニターで顔をチェックする事もせずに飛ぶように玄関に走り寄りドアノブに手を掛ける。サチが独りで立っていた。あまりにも勢い良く開いたドアに驚いて、目を丸くしている。
「あ、あの、ヒロが部屋で待ってるからって……」
あれ、なんかいつもと違う。サチの目があちこち泳いで焦点が定まっていない。どうしたの? そういえば顔が赤い気がする。
「サッちゃんもしかして風邪とか引いてない?」
おでこに手を伸ばすと、ぱっとその身をかわされた。
「ううん。全然元気っ。じゃ、あたしヒロの部屋で待ってるから」
そっけなくそう言うと、サチは岡部の部屋に向かって歩き始めた。
え……待ってよ、一緒に行こうよ。どうして先に行っちゃうの? 言葉にならず、ただその後ろ姿を呆然と見送る。
サッちゃん、サッちゃん、サッちゃん。
まるで置いてきぼりをくった子供の心境。泣きそうな気持ちで廊下に裸足の足を踏み出した。
やっぱり、岡部の野郎が車の中で何か言いやがったな。この間の事を根に持って、俺とサチの仲を引き裂くつもりなんだ。ぶつけようのない感情を、眼鏡野郎に向ける。リビングに入るとのソファーに座るヤツを、威嚇するように睨み付けてやった。
「ご機嫌斜めか? ユウタ」
その台詞に、サチが驚いたようにこちらを振り返る。 一瞬にして、表情を変え、俺は微笑を彼女に贈る。ほっとしたようにサチは岡部の隣に腰を降ろした。
なんでそこに座るの? 俺の隣に座ってくれないの?
子供じみた感情だと自分でも思う。だけど、そんな些細な事に傷付いてしまう。サチの事になると、コントロールが効かない。彼女の視線が俺からそれた途端に、再び憮然とした視線を岡部に投げてやる。岡部は、そんな俺を気に止める様子もなく、なにやら資料のようなものが入った大きめの封筒をテーブルの上に置いた。
「ユウタ、これ」
すっと、封筒はテーブルを滑って俺の目の前に差し出される。嫌な予感がした。前にもこんな封筒を見たことがある。ちょっとした女との火遊びの現場を、素人が写真に撮って、事務所にたかりにきたのだ。破格の値段で岡部はその写真を買い取った。
まさか……あの時、ヤツにこう言われた。スキャンダルは命取りになると。まだ、岡部とペアを組んで駆け出した頃の事だ。
恐る恐る封筒の中身を引き抜く。なんだ? 写真ではなくパンフレットだった。想像していたものとのあまりの違いに、一瞬調子抜けした。なにこれ?
岡部の隣に座っていたサチが、いつの間にか俺の隣にもぐりこんできた。
「うわぁ、綺麗な海っ」
ぱらりと、小さな手がページをめくる。サチの髪からは、ふわりと鼻先をくすぐる石鹸の香り。気がつけば、はしゃぐサチのパチパチと瞬きをする睫毛を目で追っていた。
「島は歩いて5分、部屋は6部屋しかない究極のリゾートアイランドだ」
奴の台詞の意味がすぐには理解できなかった。何の話?
「滞在中、日本人のゲストは他にいない。この島は特にプライベートが重視されているから、他のゲストに会う事も滅多にないらしい」
さらさらと、映画の台詞のように現実離れした話を岡部は口にしながら、リビングの隅にあるキャビネットからブランデーグラスを取り出した。そして、奴が手にした特徴のあるボトルを見て、俺はひっくり返りそうになった。
「そっそれ、お前が持っていたのかっ?」
コニャック ペルフェクション。例のホストの映画を撮った時に、知った酒。ラストシーンで地味な小学校教師だった女は、いっぱしのセレブの奥様のようにこのボトルを頼むのだ。その、御値段、二千七百万。
もちろん、そんな破格なホストクラブ料金ではないが、事務所はこの酒を撮影の小道具の為に買い取った。別に、本物を買う必要もなかったはずだが、檀社長がコレクションのひとつとして欲しがっていたから現物を探したのだ。それでもBクラスのベンツが買えるような値段だったとスタッフが噂していた。まさか、それがここにあるなんて。
「岡部っそれっ」
「あぁ、叔父貴に貰ったんだ」
さらりとそう言うと、未開封の瓶を器用に岡部は開け始めた。おいおいおいおい……マジかよ。
映画では、結局飲むシーンはなかったから未開封なのはわかる。だけど、それを今空けている、岡部に肝っ玉を抜かれた。
「あっ、その瓶っ」
いままで、パンフレットに気を取られていたサチが、会話に入り込んできた。
「見ました、映画で。うわぁ、本当にあるんですねそのお酒」
「え、サッちゃん映画で見たってまさか“愛の果て”見たの?」
「あ……」
見る見る間にサチの顔が、トマトみたいに赤く染まるのが見て取れた。さっきから、様子が変だと思っていた原因は……。
「ひっでぇ、サッちゃん。約束したのに」
「ごっごめんなさい。誘惑に負けちゃって」
「あ〜、俺、めちゃくちゃ恥かしいよ」
「でもっ、大した事なかったよR15だもん。もっと、すごいセックスシーン期待しちゃってたし」
セックスって言った? おいおいおいおい。言ってる意味判ってるのかな? 爆弾落してくれるよな。
驚く言葉を躊躇なく口にするサチと、その癖、顔を真っ赤にしているギャップがさぁ……ちりちりと体の奥で男の欲求が渦巻く感覚。やばい。俺、反応しちゃうよ。
どんっ。まるで一升瓶でも置くように無造作に音を立てて、岡部がコニャック ペルフェクションをテーブルに置いた。
びくりっ、おいおいおいおい。割れたらどうするんだ? こんな高い酒を大した事無いように扱いやがって、コイツ、やっぱり育ちが違うっていうか……。
業界でもトップクラスの芸能プロダクションの社長の座を約束されている男。一般庶民からたまたま売れっ子スターになった俺とはステージが違うって訳だ。
「乾杯するか」
「へ、何に?」
岡部は苦笑いした。何言ってやがると言わんばかりの面持ち。
「お前らのバカンスに、だ。休暇をやると言っただろう」
「え?」
改めて、目の前のパンフレットに視線を落す。ソーダブルーの海に溶け込む白い砂浜。
「サチは、行けるか? ユウタと」
隣でゆっくりと頷くサチのつむじが見えた。眼鏡の奥の岡部の瞳が一瞬、寂しそうに曇ったのは気のせいだろうか。勢いで コニャック ペルフェクションに手を掛けちまった事を後悔してるんじゃないだろうか。
「じゃあ、決まりだな。いろいろと指導しなくちゃいけないことはまだあるが、とりあえず偶然キャンセルが出て、ヴィラはもう押さえてあるから、決まりだ」
もう押さえてあるって、そういえば、部屋は六部屋しかないとさっき言ってたよな。さすが岡部ちゃんだぜ。
信じられない、1週間も休みが取れるなんて。しかもサチとこんな島でバカンスとは……。
ブランデーグラスに、生涯最高の酒が注がれる。これで一体幾らなんだろう、庶民的感覚で、そう考えずにはいられない。
「帰国したらすぐに香港での撮影に入るからな。当分は休み無しだ。覚悟しとけユウタ」
任しておけよと、視線で応え、三人でグラスを合わせる。ちびりと口に含むと、ワインとは比べ物にならない香気が鼻を突き抜けていく。だけど、ベンツに相当する味わいなのかと言われれば、その価値の奥深さは、若造の俺にはまだ知られざる世界だ。
岡部は、手のひらでグラスを包み込み温めている。時々,グラスを回しては立ち昇る芳醇な香りを鼻先で堪能している。その物慣れた仕草、さすが、檀社長に仕込まれているだけある。張りぼての俺なんかとは違う、本物の大人の男だ。
「ブランデーっていい香り」
サチはご機嫌な様子でグラスを舐めながら、何ページもないパンフレットを繰り返し眺めている。人目を気にする事のない、二人だけの時間。しかも、こんなお陽様の下で、なんて。その瞬間を想像すると、体が熱くなった。
ぐいっとグラスを傾ける。香りの強い液体が通り抜けていくと、喉元が焼けつくように火照る。これ、めちゃくちゃ度数高いんじゃないか? ふわりと体が浮く感覚が心地よい。 岡部が再びグラスを満たしてくれた。いつもは悪魔に見える岡部から、後光がさして見える。
歩いて5分の小さな南の島。奴のアイディアなのだろう。柄にもなく、随分とロマンチックな趣向を凝らしてくれたものだ。あぁ、すげぇ楽しみだ。生きてると、こんなご褒美もあるんだな。革張りのソファに深くもたれる。目を閉じると、さっき見た海のブルーがゆっくりと瞼に覆い被さってきた。
……あ……れ……遠くで岡部の声が聞こえる。ぼわんぼわん響いて、よく聞き取れない。ソファーにもたれたまま薄く目を開くと、開けっ放しになったテラスのガラス戸が見えた。 少しだけ秋の気配のする風が吹き込んできて、心地よい。
どれくらいこうしていたのだろうか? うとうとしていたみたいだ。半分まだ寝ぼけていた。リビングと同じくらいの広さのあるルーフバルコニーに人の気配を感じた。テラスに埋め込まれたフットライトが、淡い橙色の灯りでぼんやりと床を照らし出している。
気配はサチと岡部だった。
「……で……から……」
途切れ途切れに聞こえる二人の声。 夢? 掠れていた視界が、霧が晴れるように鮮明になっていく中、見えたものは……。
一つに重なった影。 岡部が、サチに口付けていた。それは多分、ほんの一瞬の出来事。サチを真っ直ぐに覗き込みながら、何かを口にしているが、低い声はボソリと小さく内容までは聞き取れない。
俺は、真っ白になった頭の隅で、悪い夢を見ているのだと自分に言い聞かせた。だけど……。サチがゆっくり腕を伸ばす仕草が薄闇の中、見て取れる。肩に手を回し、頭ひとつ小さい体で岡部を抱き寄せる。
サチの腕の中で、岡部はただ呆然と立ち尽くしていた。顎を上げて、ネオンに染まる夜の空を、ぼんやりと見上げていた。
どくどくと、体中の血が逆流して駆け巡る。嘘だ嘘だと、何度も頭の中で繰り返し、目の前の現実から逃避するように、固く瞼を閉じていた。
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