ネガに焼きついた風景には、風や波音さえ刻み込まれているようだ。砂浜に落ちた椰子の葉の影模様。その濃さが、降り注ぐ陽射しの強さを物語っていた。一瞬にして魅入られるとは、こういう気持ちを言うのだろうか。
舌に染み込む、甘いブランデーの香りを楽しみながら、薄っぺらいパンフレットを飽きる事もなく繰り返し眺める。写真に添えられたコメントは英語なので、恥ずかしながら半分以上解読不能だ。でも、言葉など必要ないほどに、切り取られた南国の情景が、バカンスの素晴らしさを伝えてくれる。
あたし二週間後にココに行くの? それも、ユウちゃんと。全然、実感がわかない。ちらりと視線を流すと、ソファにもたれながらグラスを傾けるユウちゃんがいた。
身体にぴったりと張り付いた、ベージュのタンクトップ。剥き出しになった肩にひとつ、あのホクロを見つけてしまった。ぱっと、視線を反らす。
“ひでぇ、サッちゃん約束したのに”
さっきのユウちゃんの狼狽した顔。
あたしって。
あたしって。
どうしてこうも抜けているのだろう。自ら暴露して、いつも墓穴を掘る。呆れただろうな。ユウちゃん、あんな小さな島で一週間もあたしと一緒なんて、耐えられるのだろうか。
「ユウタ、寝ながらニヤニヤしやがって」
えっ? ヒロの声に反応してユウちゃんを見ると、脱力してソファに寄り掛かりうたた寝をしている。ほんの今さっきまで、起きていたのに。手にはグラスを持ったままだ。危ねぇなと、ヒロは空になったブランデーグラスをユウちゃんの指から取り上げた。
「興奮してガバガバあおってたもんな。コイツ、あんまり酒強くないんだ」
そう口にしながらヒロは、瞼を閉じたユウちゃんをおかしそうに眺める。いつものクールな面持ちからは、滅多に覗かせない優しい眼差し。ヒロはソファの背もたれにかけてあった小ぶりのブランケットで、ふわりとユウちゃんの身体を覆った。
「ちょっと、クーラーきついかもな。サチ、ベランダの扉あけてくれる」
ふふっ、心配性のお母さんみたい。その過保護ぶりに笑いが込み上げる。
はいはい。
カラカラとベランダの扉を開け放つ。わぁ、結構広いんだ、ベランダ。こういうの、ルーフバルコニーっていうんだっけ。あれ、なんかいっぱい並んでいる……。バラの植木だった。
「あれってヒロが育てたの? 見てもいい?」
返事は聞こえなかったが、揃えてあったサンダルを勝手に履いて外に出た。さらさらと風が吹いていた。確かに、クーラーで窓を締め切っているには、もったいない心地よさだ。
階段のような三段の棚に、鉢は並べられていた。
テラスの照明はぼんやりとしたものなので、色合いの識別は曖昧だが、バラ独特の燐とした立ち姿が美しい。シルクのような花弁の光沢が、触ってみなよと誘っているようだ。
ほんのちょっとだけ、そっとそっと優しくするから。その感触を味わってみたくて、指を伸ばした時だった。
「指、気をつけな。すごい刺が隠れているぞ」
びくりっ。いつの間にか背後に忍び寄ったヒロの言葉に胸が跳ね上がる。思わず引っ込めた指先に、ちくっとした感触。
「いてっ」
無意識に痛みのある指を口に含む。ぷんと微かな血の香りがした。
「愛せらるるは薔薇の花、愛することは薔薇の棘」
歌の一節のような言葉を、ヒロはさらりと口にした。こんな気障な台詞が、似合う彼に感心する。
「映画の台詞?」
「いや、堀内大学って人の詩だ。棘って言葉にふと思い出したんだ」
「薔薇って、想像力をかきたてる花なんだろうな。うん、何だかそれ、すごく素敵」
“愛せらるるは薔薇の花、愛することは薔薇の棘”かぁ……。
「ヒロは花を咲かせる才能があるのね。ほら、ユウちゃんも、ヒロが大事に育てた、大輪の花って気がするもの」
あれ? あたしのそのひと言に、ヒロは意外な反応をした。なんていうのかな、一瞬言葉を失っちゃったっていう顔。
何だか、まずい事言っちゃったかな? 誉めたつもりなんだけど……。見てはいけないものを目にしてしまった気がして、視線を自分の足元に泳がす。何故か、目をそらしてしまった。
カチッ。小さな金属音がした。植木の脇に置かれた鉄製のテーブル。そこに伸びているヒロの長い腕を辿ると、見慣れた物があった。黒ブチの眼鏡。あたしは思わず頭一つ大きい身体を見上げた。眼鏡のない素顔のヒロの顔があった。
綺麗な切れ長の目。周囲の空気が重く絡み付く。背筋がぞくりとした。レンズを通さずに初めて注がれる眼差しは、凍りつくように冷ややかなものだったから。冷やりとした中にも、青白い炎のような激しさを秘めた視線に言葉を失った。
怖い……。敵意すら感じた。覆いかぶさってくる黒い影に飲み込まれ、足がすくみ固まってしまった。目を閉じることも出来なかった。視線を絡めたまま、ヒロは、あたしに唇をゆっくりと重ねてきた。
指先の温度と同じ、冷たい口付け。
「ふぅん、あいつ、アンタとキスするとこんな風に感じるんだな」
口の端を少し上げて、皮肉そうに薄く笑っている。
「……アンタさ、許さないよ?」
押し殺した低い声。突き放した口調に、返す言葉など何も思い浮かばない。
「アイツの事、本気じゃなかったら……許さない」
すごむような一瞥。だけど、ヒロの瞳の奥に浮かんだ、深い悲しみの色合いに胸を鷲掴みにされた。
あ……、傷つけてしまった。いや、それは今に始まった事なんかではないのだ。レンズの奥に押し隠した悲しみの瞳を、あたしは繰り返し見過ごしてきたに違いない。気が付くと、腕を伸ばしてヒロを抱き締めていた。大きな身体が、あたしの腕の中で小さく思えた。
「……ごめんね」
拒絶するようにこわばっていたヒロの身体から、力が抜け落ちる感触。
「あたし、ユウちゃんの事好きだから、ちゃんと大好きだから……」
あとは言葉にならなかった。ただ回した腕に力を込めた。
ごめんね。
ごめんね。
大事な人を奪ってごめんなさい。
ヒロの手のひらが背中に回って、ぽんぽんと、軽く叩かれた。
「高い癖に、悪酔いさせる酒だな。……すまない、ふざけ過ぎた」
ゆっくりと、ヒロはあたしの腕の中からすり抜けた。正面から見つめ合う。もう、いつものポーカーフェイスの彼に戻っていた。
「アイツ、ずっと働きづくめでさ、本当に自由なんてなかったんだよ。一週間、よろしく頼む」
あたしの方が、面倒をかけそうだと思ったが、頼まれたからには頷いて応える。
「あ、そうと決まったら帰って仕事進めなくちゃっ」
「悪い。飲んじゃって運転できないから、タクシー拾えるとこまで送っていくよ」
リビングに戻ると、ユウちゃんは変わらず寝息を立てていた。あれ、眉間に皺が寄ってるよ。怖い夢でも見てるのかな?
「すまないが、ユウタ起こさないでやって。コイツ、新しい台本を毎晩遅くまで読んでてさ、寝不足なんだ」
「香港で撮影するって映画の?」
「次の作品は、レスリー・ラウ監督なんだ。主役じゃないけれど新しいステージへの足がかりになる」
え、レスリー・ラウって言った? すごいすごい。
「うわっ、すごい好き、その人の作品。ハリウッドにも通用するアジアンビューティを撮れる人よ」
「へぇ、サチって通な事言うんだな。芸能音痴だと聞いていたけど」
「好きな監督のだけは、とことん見るタチなんだもん。ユウちゃんすごいなぁ」
リビングを出て行く時に、もう一度ちらりと寝顔を覗く。……眉間の皺が消えていた。 今度はどんな夢をみてるのかしら?
マンションの外に出ると、ヒロと並んで歩いた。いつの間にか、いつもの眼鏡の顔。すごく言い辛いけれど、はっきりさせなくちゃいけない。何度も喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
もごもごてしている様子に気付いたのか、ヒロは立ち止まってこちらを覗き込んできた。
「どうした?」
「うん……ちょっと聞いておきたい事があって」
「……」
ヒロの眼鏡の奥の瞳に、戸惑いの色が浮かぶのがわかった。だけど、それはほんの一瞬。次の瞬間には感情を見透かせない、掴みどころのない眼差しに変わる。
だけどあの冷たいキスで感じてしまった。押し殺した熱い想いを。ユウちゃんは気付いていないのだろう。こんな深い愛を注がれている事を。
いつも、どんな気持ちであたしを助手席に乗せ、彼のもとに運んでいたのだろうか。この旅行だって、どんな気持ちであの小さな島を見つけ出したのだろう。
……だから、こんな話はできればしたくはない。だけど、ちゃんと言わなくちゃいけない。うやむやにしてはいけないのだ。
「さっきの話なんだけどね」
カチッ。ヒロが誤魔化すように、煙草に火をつけた。そして深呼吸のように煙を吸い込み、ゆっくりと泳いでいた視線をこちらに戻す。
あたしは意を決して告白した。
「あの、カードの分割払いでもいい?」
きょとん。鳩が豆鉄砲ってこういう顔を言うのかしら。眼鏡の奥の瞳が、言葉を失って丸く見開いている。
……そんなに驚かなくても。超高級マンションに住んで、あんな車に乗っている彼には想像もつかないのかもしれない。かけだしの絵本作家の懐具合なんて。
確かに最近は仕事も順調になってきたが、まだまだ貯金なんて雀の涙なのだ。究極のバカンスのお値段は予想も付かないけれど、分割じゃなければ払えない事だけは明らかだった。
「十二、いえ、できれば二十四回払いとかで。ごめんなさい、しみったれた話で。Masterカードは使えるかな?」
ぽかんとした顔。あれ? まさか分割払いの意味、分からないんじゃ……。
「バァ〜カ」
咥え煙草のまま、伸ばした腕で、頭をこづかれた。
いてっ、ちょっ……と、予想だにしないリアクションに呆然とする。馬鹿って言った。やっぱりヒロって、あたしの事、馬鹿だと思ってたんだ。
「旅費の心配なんてしてるんじゃねぇよ。お前に出させるわけないだろう。経費で落とすから安心しろ」
「へ? だってあたし、壇プロダクションに所属してないのに?」
「取材とかなんだとかで、どうにでもなるんだよ。じゃなきゃ、俺のポケットマネーで払ってやる」
さすがだ。経費という言葉に、安堵のため息をついた。
「さっきから、言い辛そうにしていた話ってこの事か?」
「うん」
「アンタってさ……」
そうヒロが言いかけたとき、角を曲がって近づいてくるタクシーが見えた。ヒロが手を上げると車は、速度を落として寄ってきた。彼はタクシー券をあたしに渡すと、口の端だけで薄く笑う、いつもの皮肉めいた顔を見せた。
「アンタってさ、ホント突拍子ない女だよね。ユウタの気持ち、分かる気がするよ」
ばたんっ。そう言い終えたヒロが一歩退くと、合図のようにドアが閉まる。ぶぅん。走り出した車の中で、おやすみを小さく口ずさみながら、手を振ってみる。
ヒロは手を振り返してなんてくれない。ただずっと、見送ってくれる姿が、窓越しに小さくなっていくのが見えた。
“愛せらるるは薔薇の花、愛することは薔薇の棘”
あの薔薇の詩の意味が、さっきより深く心に突き刺さるような気がした。
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