「ごめんね」
地獄のどん底で届いた言葉は意外なものだった。
「あたし、ユウちゃんの事好きだから、ちゃんと大好きだから」
幻聴か? いや。そばだてた耳にはっきりと響いたサチの声は、少し震えた息遣いさえ伝えてきた。
“好きだから……”
血の気と共に引いていた体温が急上昇していく。
「高いくせに悪酔いさせる酒だな。ふざけすぎた……すまない」
今度は岡部の声が聞こえる。ぼそぼそとしていたさっきの声色とは違い、何かが抜け落ちたように潔い響きだった。二人が近づいてくる気配を感じ、瞼を閉じてソファに深くもたれる。起きている状態でご対面するには、心の準備ってものが。
これってさ。岡部はサチに惚れてたって事? アイツが?
薄闇の中、サチに抱き締められながらぼんやりと宙を泳いでいた、奴の眼差しが頭をよぎる。長い付き合いだけど、見たこともない、あんなにも痛々しい程に無防備な岡部を。サチの唇を盗むなど、他の男なら殴り倒しているところだ。だけど……。
“ごめんね”
そんな風に拒絶された岡部に、殴ろうなどという気持ちは萎えてしまった。
「アイツ、ずっと働きづくめでさ、本当に自由なんてなかったんだよ」
部屋に後一歩という距離まで近づいているのだろう。はっきりとした岡部の声。
おい。何を言っているんだ。そんなのアンタだって同じじゃないか。いや、俺がオフの日だって、岡部は事務所で次の仕事の段取りを組んだりしていたのだ。いつだって、俺が登るための階段を積み重ねる為に。
部屋に入ってきた二人の会話は、いつの間にかレスリー・ラウ監督の映画の話になっていた。
「ユウちゃんすごいなぁ」
はしゃぐサチの声が聞こえる。知ってるの? サチの好きな監督なのか。やばい、顔がにやけそうだ。嬉しくて。
“あたし、ユウちゃんの事好きだから……”
岡部には申し訳ないが、あっと言う間に地獄から極楽だ。二人が外に出ていく気配。ドアの閉まる音がリビングに響いた。
ぱちっと目を開く。誰も居るはずもないが、姿勢はそのまま視線だけで室内をチェックする。
がばっ。座ったまま、前のめりになって頭を抱える。両手で顔を覆うと、じっとりと汗が滲んでいた。膝にかけてあったブランケットを引き剥がす。あっちい。誰だよ、こんなもの掛けやがって。いや、岡部だな。アイツ、意外と世話焼き野郎だから。
そわそわと落ち着かず、ローテーブルに置かれたパンフレットに手を伸ばす。サッちゃん、嬉しそうに何度も眺めていたよな。英語で書かれた文字を目で追っていく。
『インド洋に浮かぶ魅惑の隠れ家』
本当にすげぇよ。ロケだ写真集だとかでビーチリゾートってやつは様々な場所を巡った。
だけど、こんな小さな島に上陸したことなどない。歩いて5分ってどんな大きさだよ。潮が満ちたら沈んだりしないのか?
サチと二人なら、そんな運命でもかまわないや。彼女をを抱えて、のんびりと隣の島まで泳げばいい。俺、結構スイミング得意なんだよね。
ふと、ブランデーの甘い香りが鼻をついた。瓶に目をやると、半分以上飲み干されている形跡。アイツ、サチに告白する勢いをつける為に、コレ開けたんじゃねぇの? いや、この旅行を計画したくらいだ、俺が眠っている状況に、はずみでキスしちまったというところだろうか。
“ごめんね”
サチの声を思い出すと胸の奥がチリチリする。
悪いな岡部。他の女ならアンタに譲るよ。だけど、サチは駄目だ。やっと見つけたんだ。あぁ、もしかしたらそれはアンタも同じかもしれないけれど……。
色恋沙汰まで弱肉強食とはな。生きていくって厳しいよね。な、今回だけ俺に譲ってよ。
もう、悪態つきません。
いい子にします。
台詞覚えます。
いや、そんな事じゃない。俺、本気だから、カッコつける余裕も無いほどに。アンタを踏み台にしてサチを手に入れるなら、俺、背負うよ。報われなかったアンタの想いも、背中にくくりつけてサチを愛そう。
その重荷はより深い足跡を、サチの心に刻むだろう。
ガチャッ。岡部が部屋に戻ってきた。
「起きたのか、ユウタ」
いつもの岡部だった。クールで、世の中知り尽くしたような大人の男。
「サチ、いないんだけど」
わざとらしくそんな質問を投げかける。さっきの二人を覗いていたなどと、決して悟らせてはならない。
「あぁ、旅行前に仕事を仕上げなきゃいけないからって今夜は帰った」
「そっか……」
意味深な口調で岡部は 「へぇ」と言った。なんだよ。それ。もしかして、狸寝入りだったってやっぱりバレているのか? 自分の三文芝居に自信がなく、心の隅でちょっとばかりうろたえちまう。
「うたた寝の間にお姫様が消えたっていうのに、随分聞き分けがいいんだな。早速休暇の功名か」
口の端をうっすらと上げて、奴は機嫌のいい様子でブランデーをグラスに注いだ。やっぱり気づいていないみたいだ。ほっと安堵の溜め息をつく。グラスを差し出すと、岡部はそれを無視して、瓶に蓋をしやがった。
「んだよ。ケチっ」
「お前の寝酒には勿体ないだろう。もう酒は駄目だ。部屋に帰って寝ろ。この間のように、目の下に隈を作ってカメラの前に立つような事があれば、休暇は取り上げだ」
「うわ、ひでぇっ」
冷血漢
石頭
サド野郎
思いつく限りの罵声を浴びせる。……やべぇ。さっき俺、誓わなかったっけ?
いい子にします
悪態つきません
長年体に染みついた習慣ってやつは、そう簡単には抜け落ちやしない。
「岡部」
「なんだ。まだ言い足りないのか」
それから? とでも言いたげな眼差し。
「感謝してる」
一瞬、怪訝そうに岡部は俺を見つめ返した。
「お前がいなきゃ、きっとみんな幻だった。映画の主役も、サチも」
「柄にもなくしおらしい事を言ってくれるんだな。忠告しておくが、今回のバカンスは役作りの為でもある」
ゆらゆらと、グラスの中身を揺らしながら、岡部はそう淡々と口にした。
「今度のお前の役どころはなんだ」
「えっと、沖縄在住のミュージシャン」
何が言いたいんだよ。
「趣味は?」
「サーフィン」
まさか、サーフィンの練習をしてこいって言うんじゃないだろうな。実際波乗りをするシーンはないはずだ。ボードを持って、浜辺を歩くカットはある。そこで香港から来た女と出会う設定なのだ。言葉もほとんど通じない相手に心を奪われる。
「綺麗に日焼けした肌でと、監督から希望があった」
「は?」
「サチと行く島、ドーニ・ミギリには日焼けを肌に落ち着かせるスパのコースがある。
毎日欠かさずそれを受ける事。あとで俺の方から予約を入れておく」
「スパ?」
「むらな日焼けなんざ許さんぞユウタ。南国の日差しをあなどるなよ」
こいつって、こいつって……。カチリとテーブルに奴が置いたグラスをさっとかすめ、一気に飲み干してやる。
「ばっ……か。ユウタなにしてる」
ぷはっ、美酒に喉が焦げ付く感覚。
「わかったよ。ご注文通り、豚の丸焼きみたいに飴色にこんがりと焼けてくるぜ」
「お前等の滞在する島には日本人は居ない。だが、他のリゾートの島には近づくなよ」
あぁ、もうわかったぜ。まるでコイツ小姑だ。
「へいへい、わかりました。さてと、サッちゃんも居なくなっちゃたし、部屋に帰るとしますか」
がたりと立ち上がる。おっと、これを持っていかなきゃな。机の上のパンフレットに手をかける。
「ユウタ」
再び岡部に呼びかけられた。おいおい、もう勘弁してくれよ。少しうんざりした気分で振り返った俺に、ぼそりと奴は言葉を投げてよこした。
「俺も、お前と出会えて良かったと思っている」
目が合うと、うざったそうに岡部は視線をそらした。あれ? なんだよ、照れてるのかよ。ふてぶてしく憮然とした仕草が不自然だぜ、オカベちゃん。
男の固い友情ってやつも悪くない。まさか、女の趣味も同じだったとは今更の発見だったが……。
じゃあな、とすれ違い様、岡部の肩に手を置く。ほんの一瞬、視線を絡めると、俺はゆっくりとリビングの扉に向かっていった。ふと、違和感がした。待てよ、あれ? 岡部の女の趣味ってさ。
ブルーアイズにショートボブ、挑戦的な眼差し、ああいうのがタイプじゃなかったっけ?サチと全然違うよな。
岡部ちゃんって、結構、バリエーション豊かっていうか……。
仕事が一段落したら、マジで岡部とディズニーランドに行こう。きっと、ホーンテッドマンションなんて入った事ないだろうな。もちろん、アイツのお好みに合わせて、ブルーアイズにショートボブで装って。
たまには岡部もハメを外さなきゃ。俺達が歩調を合わせて10年のアニバーサルだ。
どんな状況になるやら……、思い描けばそうする程に、笑いが込み上げた。
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