ごめんね(ユウタ)18話

投稿日:2018-09-01 更新日:

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「ごめんね」

地獄のどん底で届いた言葉は意外なものだった。

「あたし、ユウちゃんの事好きだから、ちゃんと大好きだから」

幻聴か? いや。そばだてた耳にはっきりと響いたサチの声は、少し震えた息遣いさえ伝えてきた。

“好きだから……”

血の気と共に引いていた体温が急上昇していく。

「高いくせに悪酔いさせる酒だな。ふざけすぎた……すまない」

今度は岡部の声が聞こえる。ぼそぼそとしていたさっきの声色とは違い、何かが抜け落ちたように潔い響きだった。二人が近づいてくる気配を感じ、瞼を閉じてソファに深くもたれる。起きている状態でご対面するには、心の準備ってものが。

これってさ。岡部はサチに惚れてたって事? アイツが?

薄闇の中、サチに抱き締められながらぼんやりと宙を泳いでいた、奴の眼差しが頭をよぎる。長い付き合いだけど、見たこともない、あんなにも痛々しい程に無防備な岡部を。サチの唇を盗むなど、他の男なら殴り倒しているところだ。だけど……。

“ごめんね”

そんな風に拒絶された岡部に、殴ろうなどという気持ちは萎えてしまった。

「アイツ、ずっと働きづくめでさ、本当に自由なんてなかったんだよ」

部屋に後一歩という距離まで近づいているのだろう。はっきりとした岡部の声。

おい。何を言っているんだ。そんなのアンタだって同じじゃないか。いや、俺がオフの日だって、岡部は事務所で次の仕事の段取りを組んだりしていたのだ。いつだって、俺が登るための階段を積み重ねる為に。

部屋に入ってきた二人の会話は、いつの間にかレスリー・ラウ監督の映画の話になっていた。

「ユウちゃんすごいなぁ」

はしゃぐサチの声が聞こえる。知ってるの? サチの好きな監督なのか。やばい、顔がにやけそうだ。嬉しくて。

“あたし、ユウちゃんの事好きだから……”

岡部には申し訳ないが、あっと言う間に地獄から極楽だ。二人が外に出ていく気配。ドアの閉まる音がリビングに響いた。

ぱちっと目を開く。誰も居るはずもないが、姿勢はそのまま視線だけで室内をチェックする。

がばっ。座ったまま、前のめりになって頭を抱える。両手で顔を覆うと、じっとりと汗が滲んでいた。膝にかけてあったブランケットを引き剥がす。あっちい。誰だよ、こんなもの掛けやがって。いや、岡部だな。アイツ、意外と世話焼き野郎だから。

そわそわと落ち着かず、ローテーブルに置かれたパンフレットに手を伸ばす。サッちゃん、嬉しそうに何度も眺めていたよな。英語で書かれた文字を目で追っていく。

『インド洋に浮かぶ魅惑の隠れ家』

本当にすげぇよ。ロケだ写真集だとかでビーチリゾートってやつは様々な場所を巡った。

だけど、こんな小さな島に上陸したことなどない。歩いて5分ってどんな大きさだよ。潮が満ちたら沈んだりしないのか?

サチと二人なら、そんな運命でもかまわないや。彼女をを抱えて、のんびりと隣の島まで泳げばいい。俺、結構スイミング得意なんだよね。

ふと、ブランデーの甘い香りが鼻をついた。瓶に目をやると、半分以上飲み干されている形跡。アイツ、サチに告白する勢いをつける為に、コレ開けたんじゃねぇの? いや、この旅行を計画したくらいだ、俺が眠っている状況に、はずみでキスしちまったというところだろうか。

“ごめんね”

サチの声を思い出すと胸の奥がチリチリする。

悪いな岡部。他の女ならアンタに譲るよ。だけど、サチは駄目だ。やっと見つけたんだ。あぁ、もしかしたらそれはアンタも同じかもしれないけれど……。

色恋沙汰まで弱肉強食とはな。生きていくって厳しいよね。な、今回だけ俺に譲ってよ。

もう、悪態つきません。
いい子にします。
台詞覚えます。

いや、そんな事じゃない。俺、本気だから、カッコつける余裕も無いほどに。アンタを踏み台にしてサチを手に入れるなら、俺、背負うよ。報われなかったアンタの想いも、背中にくくりつけてサチを愛そう。

その重荷はより深い足跡を、サチの心に刻むだろう。

ガチャッ。岡部が部屋に戻ってきた。

「起きたのか、ユウタ」

いつもの岡部だった。クールで、世の中知り尽くしたような大人の男。

「サチ、いないんだけど」

わざとらしくそんな質問を投げかける。さっきの二人を覗いていたなどと、決して悟らせてはならない。

「あぁ、旅行前に仕事を仕上げなきゃいけないからって今夜は帰った」

「そっか……」

意味深な口調で岡部は 「へぇ」と言った。なんだよ。それ。もしかして、狸寝入りだったってやっぱりバレているのか? 自分の三文芝居に自信がなく、心の隅でちょっとばかりうろたえちまう。

「うたた寝の間にお姫様が消えたっていうのに、随分聞き分けがいいんだな。早速休暇の功名か」

口の端をうっすらと上げて、奴は機嫌のいい様子でブランデーをグラスに注いだ。やっぱり気づいていないみたいだ。ほっと安堵の溜め息をつく。グラスを差し出すと、岡部はそれを無視して、瓶に蓋をしやがった。

「んだよ。ケチっ」

「お前の寝酒には勿体ないだろう。もう酒は駄目だ。部屋に帰って寝ろ。この間のように、目の下に隈を作ってカメラの前に立つような事があれば、休暇は取り上げだ」

「うわ、ひでぇっ」

冷血漢
石頭
サド野郎

思いつく限りの罵声を浴びせる。……やべぇ。さっき俺、誓わなかったっけ?

いい子にします
悪態つきません

長年体に染みついた習慣ってやつは、そう簡単には抜け落ちやしない。

「岡部」

「なんだ。まだ言い足りないのか」

それから? とでも言いたげな眼差し。

「感謝してる」

一瞬、怪訝そうに岡部は俺を見つめ返した。

「お前がいなきゃ、きっとみんな幻だった。映画の主役も、サチも」

「柄にもなくしおらしい事を言ってくれるんだな。忠告しておくが、今回のバカンスは役作りの為でもある」

ゆらゆらと、グラスの中身を揺らしながら、岡部はそう淡々と口にした。

「今度のお前の役どころはなんだ」

「えっと、沖縄在住のミュージシャン」

何が言いたいんだよ。

「趣味は?」

「サーフィン」

まさか、サーフィンの練習をしてこいって言うんじゃないだろうな。実際波乗りをするシーンはないはずだ。ボードを持って、浜辺を歩くカットはある。そこで香港から来た女と出会う設定なのだ。言葉もほとんど通じない相手に心を奪われる。

「綺麗に日焼けした肌でと、監督から希望があった」

「は?」

「サチと行く島、ドーニ・ミギリには日焼けを肌に落ち着かせるスパのコースがある。

毎日欠かさずそれを受ける事。あとで俺の方から予約を入れておく」

「スパ?」

「むらな日焼けなんざ許さんぞユウタ。南国の日差しをあなどるなよ」

こいつって、こいつって……。カチリとテーブルに奴が置いたグラスをさっとかすめ、一気に飲み干してやる。

「ばっ……か。ユウタなにしてる」

ぷはっ、美酒に喉が焦げ付く感覚。

「わかったよ。ご注文通り、豚の丸焼きみたいに飴色にこんがりと焼けてくるぜ」

「お前等の滞在する島には日本人は居ない。だが、他のリゾートの島には近づくなよ」

あぁ、もうわかったぜ。まるでコイツ小姑だ。

「へいへい、わかりました。さてと、サッちゃんも居なくなっちゃたし、部屋に帰るとしますか」

がたりと立ち上がる。おっと、これを持っていかなきゃな。机の上のパンフレットに手をかける。

「ユウタ」

再び岡部に呼びかけられた。おいおい、もう勘弁してくれよ。少しうんざりした気分で振り返った俺に、ぼそりと奴は言葉を投げてよこした。

「俺も、お前と出会えて良かったと思っている」

目が合うと、うざったそうに岡部は視線をそらした。あれ? なんだよ、照れてるのかよ。ふてぶてしく憮然とした仕草が不自然だぜ、オカベちゃん。

男の固い友情ってやつも悪くない。まさか、女の趣味も同じだったとは今更の発見だったが……。

じゃあな、とすれ違い様、岡部の肩に手を置く。ほんの一瞬、視線を絡めると、俺はゆっくりとリビングの扉に向かっていった。ふと、違和感がした。待てよ、あれ? 岡部の女の趣味ってさ。

ブルーアイズにショートボブ、挑戦的な眼差し、ああいうのがタイプじゃなかったっけ?サチと全然違うよな。

岡部ちゃんって、結構、バリエーション豊かっていうか……。

仕事が一段落したら、マジで岡部とディズニーランドに行こう。きっと、ホーンテッドマンションなんて入った事ないだろうな。もちろん、アイツのお好みに合わせて、ブルーアイズにショートボブで装って。

たまには岡部もハメを外さなきゃ。俺達が歩調を合わせて10年のアニバーサルだ。

どんな状況になるやら……、思い描けばそうする程に、笑いが込み上げた。


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