薬液に浸した印画紙に浮かび上がる淡い色素。じわじわと刻みこまれていくラインが、南国の日射しに照らし出された二人の姿を描いていく。
水洗いした印画紙を摘み上げ、乾燥させる為に1枚ずつクリップに挟み吊す。一通りの作業を終えると、椅子にもたれ息をついた。
参ったな……。
どうした? まだ未練があるとでも言うのか。空港でアイツを見送った瞬間に、全てを清算したつもりでいたのに。
暗室のドアがノックされる。
「ヒロさん、いつまで籠って写真とにらめっこしているの。温室にお茶を用意したから出てらっしゃいな」
「……今、行きます」
目黒の閑静な住宅地。その中でも、明治時代の華族の洋館を改築したこの屋敷はレトロ雰囲気を漂わせ、一際目を引く。その一角に作られた温室には、色とりどりの薔薇が咲き乱れていた。
優雅な曲線を描いたガラス張りの屋根からは、少し傾きかけた陽射しが差し込む。紫色のイングリッシュローズが描かれたティポットから注がれる紅茶が、湯気をあげて甘い香りを漂わせている。
「ヒロさんたら、来るなり暗室に閉じ籠っちゃうんだもの。随分つれないのね」
ちらりと刺のある視線を投げながら、女は妖艶な微笑みを口元に浮かべる。
「今日はあの人ね、北原さんから急なゴルフのお誘いがあって、ホント、ヒロさんと入れ違いだったのよ」
ふふっ。と、意味深な含み笑い。叔父貴が留守だという事が丁度良かったとでも言いたげな口調だ。
「北原さんって可愛い方よね。電話に出たあたしに、一日旦那様をお借りしてもよろしいでしょうか、なんて言うのよ。思わずに吹き出しちゃったわ」
北原プロデューサーか。タイミングは、良かったのかどうか。ただ、この女と二人向かい合い、茶なんぞ啜るのは、何年ぶりだろう。
日本の伝統色、茄子紺の地にシルバーグレーの矢羽根模様の着物。日常をこんな風に装う女が、日本にはどれくらい残っているものか。
程よく着崩した襟元。柔らかく結い上げた襟足。
随分とこの家の暮らしに馴染んだものだな。そう思わずにいられない。昔は投げやりで、どこか飢えた目をした女だったのに。満たされて、慈愛すら溢れているこの余裕をいつの間に身に付たのか。
俺の両親と、叔父貴の前妻は、十五年前飛行機の事故で一緒に死んだ。神戸の本家で執り行われる法事の帰り、その悲劇は起きた。俺は学校の期末試験。父の弟、叔父貴は、仕事の都合で同行していなく難を逃れたのだ。
本家の祖父母が、俺を引き取るという話もあったのだが、頑なに叔父貴は自分が面倒を見るのだと譲らなかった。
それから一年後だ。この女が後妻に迎えられたのは。初めて顔を合わせた時、俺は息を飲んだ。死んだ叔母に生き写しだったから。
年はひと回りも若かったし、元銀幕女優だった叔母の優雅さとは比べようもない野暮ったさも覗かせていた。けれど、顔は血の繋がりを疑う程に似ていた。
場末のキャバクラで、あの女優に良く似ている……と噂になっているのを何処で聞きつけたのか。叔父貴には縁もゆかりもなさそうな、そんな店から拾ってきた女らしいと、おしゃべりな家政婦が耳打ちをしてくれた。親の借金にまみれて首が回らないところを、叔父貴が肩代わりした代償に連れてこられたのだと。
あの時、俺は十六歳。女は二十四くらいか。
若く見えるとはいえ三十代後半の叔父貴より、俺の方が年が近いくらいだった。
「ヒロさん、全然こちらに顔を見せないんですもの。あの人とは仕事で会ってるのかもしれないけど、たまには寄って頂戴な」
「すみません、なかなか休みがなくて」
薔薇の花を背景に、真向かいに座る女は出来すぎた絵画のようだ。いや、見た事がある。
叔父貴の書斎に飾られている、叔母の肖像画にそっくりではないか。
……この着物。
「ヒロさん、あたし三十八歳になったの。亡くなった奥様の歳にやっと追い付いたわ」
嬉しそうに女は艶やかに笑ってみせた。
ぞくり。
狂気と背中合わせの妖艶さを感じる。死んだ叔母の歳になった事を喜ぶなど、奇妙としか言いようがない。アンタにとって、叔母は己の人生を奪った存在であったはずだ。
「よく世の中には同じ顔をしている人間が三人いるって言うでしょう? その一人が奥様で本当に良かったって今は思えるの。例え身代わりでも、ね」
同じ顔……。
ふと、ショートボブのウィッグをかぶったユウタの姿が頭をよぎった。あの時、他人の空似だと思いながらも、一瞬、魅入られてしまった。あれが本当に他人だったら、叔父貴のように身代わりの女を俺は愛する事が出来るのだろうか。
対象が、男だから女だからという境界線が俺にはない。小さい頃から叔父貴に連れ回され、芸能界というものを身近に感じて生きてきた。奔放な恋愛劇の数々を眺める機会が多かったせいだろうか。だが、ノーマルな人間に比べて倍、恋愛対象が倍あるというのに、結局俺は、上っ面な関係を繰り返すだけ。
「あたし、ずっと奥様の人生をなぞって行きていくのが苦痛だった。あの人に愛されれば愛される程に、嫉妬に狂いそうになったわ」
だけどね……と、ティカップの縁をなぞりながら、女は話を続けた。
「あの人の奥様の記憶はここまでなのよ。これから目にしていくのは、三十八より歳を重ねていくあたし。未知の人生が待っているって訳」
頬杖をつく白い手首。笑いを噛み殺した赤い口元。
「でもね、すっかり奥様の真似が板についちゃってね、今更、自分らしくなんて言ってもよくわからないのよ。ただ、何かが抜け落ちたように心が軽いの。あの人に悪戯できる程にね」
「……悪戯?」
クスクスと、女は堪えきれない笑いを溢しはじめた。
「ほら、これ」
女は着物の袖元を摘まんでみせた。
「奥様の着物」
はにかむ仕草は、まるでよそ行きのワンピースを装った少女のようだ。
「今まで、奥様の持ち物に袖を通した事なんてなかったのよ。でも最近はいつもお借りしているの。だって素敵な物ばかりで、箪笥に眠らせておくなはもったいないし、それにね、あの人、奥様の着物を着たあたしに照れ臭そうな、困った顔をするのよ。可愛いくって」
柔らかい笑顔。
やっとこの女は花開いたのかもしれない。長い間蕾を固く閉ざし、この瞬間を夢見て。
「お金で買われて、身代わりで知らない男の妻になって、ずっと惨めな人生だって思っていたわ。でも今、振り返ってみると不思議と幸せだったんだって思えるの。だってあの人に愛されていたのは紛れもない事実だから」
コポコポと湯気をたてて、お茶のお代わりを華奢な指が注ぐ。その薬指には結婚指輪が控えめに光を放つ。
「初めてこの家に来た頃、死ぬことばかり考えていた。あの頃のあたしを救ってくれたのはヒロさん、貴方だわね」
思わぬ話の展開に、目の前の女をまじまじと見詰める。
「……救って貰ったのは、俺の方でしょう」
「いいえ、あたしよ。貴方はたった一人しかいない、自分で選んだ男なのよ。いつだって、誰とだって、差し出される男を受け入れる事しか許されなかった。だけど貴方だけよ……自分から欲した男は」
雪が、雪が降っていたからだ。
めったに東京に降り積もる事のない、雪が街を覆い尽くそうとしていた。
十六歳、高校一年生だった。窓から覗く白い景色に、柄にもなく動揺していた。
去年の、あの日と同じだと……。
叔父貴は、前の晩から仕事で家を空けていた。首都圏では、電車もバスも夕方には麻痺する恐れがあると、繰返し朝のニュースが告げていた。通いの家政婦が、今日はこんな天気なので暇をもらいたいと、受話器越しに話す声を上の空で聞いていた。
『神谷さん、今日はこられないって』
学生鞄を手をかけながら、そう告げると、女はびくりと身体を跳ね上げて視線を向けた。
いつも陰気に下ばかり見てやがる。
朝食だけは家政婦ではなく女が用意していた。叔母が生前、そうしていたように。
手動のミルで豆を挽いたコーヒー。
クリームチーズを塗ったくるみパン。
帆立貝のソテーやハッシュポテトを添えた半熟の目玉焼き。
野菜たっぷりのミネストローネ。
中々の腕前だというのに、女はいつも黙ってうつ向き、こちらの様子を伺っている。
女が家に来てからニヵ月が過ぎようとしていたが、言葉を交わすことも稀だった。だから、ダイニングを出て、玄関で靴をはく俺を、女が追いかけてきた時には一体何の用なのかと怪訝な気持ちで振り返った。
『ヒロさん、忘れ物……はい、これ寒いから』
ふわり。
靴を履き終えた俺より一段高い位置から、首にマフラーを掛けてきた。
“ヒロさん、忘れ物ですよ…”
同じ台詞を、これより一年前の初雪の日に母親から聞かされた。
『木曜の便で神戸からもどりますから、今日から叔父様のとこに、ふた晩お世話になって頂戴ね』
子供の世話を焼くよう母にマフラーを首に巻かれ、うんざりした気分になった。
しかめっ面で経済新聞を眺めながら朝食の席ついている親父から、逃げてきたのだなんて、俺にはお見通しなのだ。
冷えた家庭だった。
仕事と外に囲った女に忙しく、家庭をかえりみない父親。恨み事ひとつ溢さずに、良妻賢母を演じる母親。本家の法事に夫婦揃って出向くのに、さすがに愛人宅から行くのは気が引けるのか、昨夜遅くに父親は帰宅したらしい。
『チラチラ雪も降って来たわ。暖かくして……ね?』
止めてくれよ、俺に寄り掛かるのは。親父と触れ合えないからって、中学三年の息子を幼稚園児のように世話を焼いて気をま紛らわすのは。
ふわりと頬に触れる母親の指先。愛しそうに見詰める眼差し。舌打ちしたい気分で、その手を振り払い外に飛び出した。
降り始めた雪が舞っていた。儚げに落ちては溶けていくアスファルトを踏みつけながら、皆、消えてしまえばいいと、心の中で吐き捨てるように毒付いていた。
雪はやがて本格的に降り始め、3日かけて、街をじわじわと白く染めあげていった。薔薇作りが好きな叔母の為に、叔父貴が知り合いの建築家に依頼したサンルームを兼ねた温室。その部屋でベッドのようなソファーに寝転びながらガラスの屋根に降り注ぐ雪を眺めていた。
期末試験の為に持ち込んだ参考書は閉じられテーブルに放り投げたまま。今更、慌てたところでそんなに変わるわけでもないさと、やる気はすっかりと失せていた。その時だった、家の電話が鳴ったのは。
三十分程前に叔父貴から、仕事がもう少しで片付くから、近所のビストロで夕食を取ろうと連絡を貰っていた。だから、この電話の主を疑う事もなく受話器をあげたのだ。やはり受話器の向こうの声は叔父貴だった。
『……ヒロ』
聞き慣れない押し殺した声色に違和感を感じながら、次の言葉を待った。
『……飛行機が……』
“皆、消えてしまえばいい”
まさか本当にいなくなるだなんて。現実感がないまま、時間が流れていった。失ってしまった物が何なのか、そんな感覚すら曖昧な気がした。
だから叔父貴がこの女を連れてきた時には、あぁ、死んだ叔母の事をそんなに深く愛していたのかと、羨ましい気さえしたのだ。
面影だけでも、再び求めてしまう程に誰かを愛する事など、俺には一生縁がない気がした。
だが……この女に、俺は同類の匂いを感じたのだ。底無しに空虚な闇色の瞳。
“ヒロさん、忘れ物ですよ…”
同じ台詞を
同じ雪の降り始めた朝
同じ仕草でマフラーを掛けて貰って…
俺は時間が遡る感覚に、目眩さえ感じ、ただ立ち尽くしていた。
『ヒロさん……?』
マフラーから手を離した女がそっと指を伸ばしてきた。両頬に温かい指先が添えられる感触。女の唇が近づき、俺の目尻をそっと吸い上げる。
どうしたっていうんだ?
……泣いているだなんて。
どうしたっていうんだ?
……この女にもたれかかっているだなんて。
親の借金のカタに今時、身売りのように知らない男に嫁いだ女。傷を舐め合うにはお似合いだったのかもしれない。
学生鞄を玄関に置きっぱなしにしたまま、靴を脱ぐと手を引かれるまま家の奥に導かれる。行き着いた先は温室だった。コアコーナーのあるカウチソファーに絡み合いながら倒れこむ。隙間を埋め込むように身体を重ねても、ひと時の気休めだなんて分かっていた。
それでも救われる気がした。
……いや、実際救われたのだ。
親の葬式でも涙なんて溢した記憶などなかった。だけど所詮、負けん気の強い、捻くれたガキだっただけ。俺の痛みを理解してくれる女の温もりに、気付けば夢中でしがみついていた。
たった一度の情事だった。何事もなかったかのようにひとつ屋根の下、三年間暮らした。不思議と、叔父貴を裏切った後ろめたさはなかった。告白したところでアノヒトは、許してくれるのだと分っていたから。叔父貴はそういう男だった。本当の父親よりも深く俺を理解してくれていた。俺が望むものは、心の底から欲した物なのだと。
だから、映画の主役を蹴ってまで、ユウタのマネージャーになりたいのだと口にした時も異論を唱えてこなかった。お前がそこまで目を掛けるなら、大した逸材なのだろうと全てを任せてくれた。
「ヒロさん今年、三十歳になられたんですってね。もうすっかり一人前ね」
女の声にはっと我に返る。
久しぶりに、この温室にいると、時間が交差するような感覚に襲われる。
「ねぇ、無粋な事を聞いていいかしら」
少し首を傾げて、女は少し照れくさそうに言葉を繋げる。
「男の人にとって、初めての女ってどういう存在?」
「は?」
クスクスと悪戯を仕掛けた子供のような瞳を見え隠れさせながら、女は答えを待つ仕草を見せる。
まいったな、俺も叔父貴のように、からかいの標的にされているらしい。
「特別な存在ですよ」
俺の言葉に満足そうに女は口元を緩めると、すっと立ち上がった。一瞬にして笑顔は消え失せ、その瞳には淋しげな色が浮かんでいる。ソファーに座る俺に歩み寄ると、女はじっとこちらを見下ろした。
玄関先で見詰め合った十四年前のあの距離感。女の手が伸びてきた。まるで時間が巻き戻ったように同じ仕草で。
「ヒロさん、あたし気付いちゃったのよ。おせっかいな女だって呆れられるかもしれないけれど。暗室に貴方が篭ってしまう前に、ちらっと顔を合わせたでしょ。あたし、あなたの眼差しに、胸を鷲掴みにされる思いがしたわ」
髪に差し込まれた指に、そっと引き寄せられる。着物の胸元から、ほのかに甘すぎないローズ系の香りが流れてきた。
「一体どんな人なのかしらね、貴方にそんな顔をさせる相手は……ちょっと妬けるちゃうわ」
女の腕の中で、俺は目を見開いて着物の矢羽根模様を凝視していた。何を言っているのかと笑って受け流そうとしたが、言葉が出ない。
「愛することは薔薇の棘……だったかしらね」
叔父貴の書斎の本棚に、目立たなく置かれた堀内大学の詩集。さらりと口に出来るのは、この女も手にした事があるのだろうか。
愛することは薔薇の棘。
「ヒロさんって、本当は凄く情熱的な一面を持っている癖に、いつだって冷静な仮面をかぶって心の内を見せないのよね。それは壊れる程に傷付いた時も同じ」
どうして、この女はいともたやすく俺の心の奥底を覗き込む?
「ねぇ、ヒロさん、疲れ果ててしまった時に、もたれかかる場所がひとつくらいあるのも悪くないでしょう」
俺は女を見上げた。ゆったりとした柔らかい笑みは、迷える人々に行く先を導くマリア像のように慈愛に満ちていた。
「貴方にはよく分かっていると思うけれど、あたしって、かなり後腐れのない女よ?」
あぁ、知っているさ。アンタの前じゃ、俺はいつまでも痩せ我慢をして粋がっているガキのまんまだ。
目を閉じてその身体にもたれてみる。あの時と同じように……。降参だと白旗を降る事も、この女の前では不思議と心地良い。
限界だった。
もともと俺の影響でアナログカメラを趣味となったユウタが、モルディブから持ち帰ったフィルムの現像を、他の誰かに任せる訳にはいかないと、取り上げたのは俺自身。
なのに、このザマは何だ? 暗室ランプの中、焼きあがっていく写真の笑顔に胸がえぐられる気分だった。もう沢山だ、自分でコントロール出来ない感情など、趣味ではないというのに。
助けを乞うように女の背に腕を回す。奪うように唇を重ねると、女はそっと俺に息を吹き込んでくる。
ひと時の休息を委ねよう。これから、俺らしく前を見据えて生きていく為に。
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