この胸に宿る願い(ユウタ)27話

投稿日:2018-11-19 更新日:

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恋は熱病のようなものだと記したのは、遠い国の詩人か哲学者か。

女は口説き落とすまでが最高にスリリングなお遊びだ。この手に落ちてきたと感じる高揚感。だが、ひと時それを味わった後に残るものは、色褪せた倦怠感。

サチという熱病は、自分を見失うほどに俺の心を蝕んだ。

熱が冷めたと意地悪く言ったら、サチはどんな顔をみせるのだろう。

いつもの色恋沙汰なら、これでゲームオーバー。この先にどんなドラマが展開されるのかなんて、考えた事もなかった。

だけど、サチを知って……。

俺は全く免疫のない未知の領域に、一歩踏み込んでしまった。更なる後遺症が俺を蝕む。

熱が冷めたと意地悪く言ったら、サチはどんな顔をみせるのだろう。

悲しみを秘めた眼差しを投げてくるのだろうか。それとも、肩をすくめて、仕方がないと笑っておどけて見せるのだろうか。そっけなく流されたらと思うと、冗談でもそんな事を口にする勇気は俺にはない。

ただ、 やみくもに求める熱が引けた後、意外な感情が芽生え始めた。サチが癒してくれた羽は、どんな高見までもはばたかせる力を与えてくれる。

そう、彼女は、そんな夢を見せてくれる。

俺は今まで誰かのために頑張ろうだなんて思った事などなかった。ましては、何の為に生きるのかなんて、小指の先程の思想も持ち合わせてはいない。

だけど……海と空だけに抱かれた小さな島での1週間は、俺に一筋の道しるべを照らし出してくれた。

肩を寄せ合い、黙って見詰めるスコールの雨粒。

ディナーのテーブルから拝借した果物を、ベッドの上で分け合って齧る長い夜。

サチは目が覚めるとよく、さっきまで彷徨っていた夢の話を聞かせてくれた。それは作り話ではないかと思う程に物語性があり、寝ぼけた口調で、ビー玉の瞳をだけはピカピカと輝かせながら、彼女は語り始める。

ドーニでね、ずっとずっと旅をするの。そうするとね、椰子の木が一本だけ生えた小さな島に辿り着くのよ。服のポケットに小さな種が沢山入っていて、それをひとつずつ指であけた穴に落して植えるの。そうするとね、薔薇が花を咲かせるの。ほら、ヒロのベランダにあったような大輪の薔薇。アダムが色々な島のハネムーナーから注文を聞いてきてね、ユウちゃんとブーケを作って暮らすの。モルディブで一番小さな島の花屋になるの。

夢って、すぐに話さないと忘れちゃうから、いつもは夢日記をつけてるの。童話のネタになったりするのよ。

屈託のない顔でくるくると表情を変え話す仕草を、南国の柔らかい朝日の中で眺める至福のひと時。その一瞬一瞬を噛み締めながら、俺は頭の片隅であと何日、こんな風に過ごせるのだろうと考えずにはいられなかった。

寝起きの彼女が、小さく伸びをしながら2度繰り返す欠伸。そんな癖さえ愛しくて。

サチの全てを俺の日常にしたい。この感情は何なんだ?  それを自覚した時、すっと熱が引けたんだ。俺、浮かれている場合じゃないんだと。

帰国した途端、自分が現像するからと、岡部にフィルムを取り上げられた。

「他の奴の目に、触れさす訳にはいかないだろう」

そうだよな。パパラッチも泣いて喜ぶ大スクープってやつ。カメラマンは意外にもアングルにこだわりをみせたアダムだ。

俺のサチに対して芽生えた始めたこの想いを、岡部に告白したらアイツはなんて答えるのだろう。

無視か?
放置か?
失笑か?

戯言を口にするのは、一人前になってからにしろと一喝される事だろう。レスリー・ラウの映画で、それなりの評価を得られたならば、岡部も耳を傾けてくれるかもしれない。

 

 

ヘッドフォンのコマーシャル新バージョン撮影で、再びスタジオ入りをしている時だった。いつの間に入り込んだのか、北原プロデューサーが岡部の隣に立っていた。妙に深刻な顔で、話し込んでいる様子。

どうしたって言うんだ? 目の錯覚じゃないだろうか。あの北原さんが、何度も岡部に頭を下げている。気がそれたせいか、ステップを間違えてNGを出してしまった。

少し休憩に入り、一歩セットから足を踏み出すと、顔馴染になったダンサー達がどっと俺に群がってきた。

「ねぇ、ユウタぁ、今日皆で飲みに行くんだけど、ちょっとだけでも顔出さない?」
「岡部さんにはあたし達が上手く誤魔化しておくからぁ……ねっ?」
「ユウタ、すっごい、いいい色に焼けてるよね。どこのサロンに行ったの? あたしも連れてって欲しいなぁ」

おいおい、確かにポスター撮りだなんだで面識があるけれど、俺はアンタ達の友達でも何でもねぇぞ?馴れ馴れしいんだよね。しかも、名前呼び捨てかよ。

心の中では悪態をつきながらも、顔は営業スマイルで適当に誤魔化す。体裁だけは申し訳なさそうに、岡部と打ち合わせがあるからと断わり、服の裾を掴む指先を擦り抜けて歩き出す。近寄ってきた俺の姿を認めると、岡部と北原さんはぴたりと会話を止めた。

「お久しぶりです」

そう挨拶をする俺に、北原さんはすがるような眼差しを投げてくる。

「何かトラブルですか?」

「いや、まぁそうなんだ。緊急な相談でね、迷惑をかけて申し訳ないんだが、とにかくここは桂木君にお願いするしかないと頭を下げに来たんだ」

北原さんは、固い表情のまま俺に深々と頭を下げてよこした。

「いや、北原さん、そんな」

頭を下げたままの彼の頭上で、俺は岡部に目配せをした。どうしちまったんだよ? このおっさん。

「了解しました、北原さん。スケジュールを調整しますが、本番ギリギリの局入りになります」

岡部の台詞に、北原さんは心底ホッとした表情を見せた。

「いや、もう桂木君ならぶっつけ本番でも、安心してカメラを向けられるよ。インタビュアも映画評論家の市川竜之介先生にお願いする予定だから」

市川竜之介、映画雑誌の編集長もしている大御所だ。

「休憩が終わるぞ、ユウタ。この話は後で俺からゆっくりと説明するから、今は集中しろ」

じろりと睨まれ、はいはいと視線を返す。

きっと、レスリー・ラウ監督の新作に対してのインタビューを受けるのだろう。話の全体像は見えないままだったが、岡部が他の予定を調整してまで受けると言うのならば異論はない。

じゃあ、と会釈をして踵を返すと、 「桂木君っ、恩に着るよ」と北原さんは、はつらつとした口調で言葉を投げてきた。

「ただ、ひとつ条件があるのですが……」

歩き始めた俺の背後から、ぼそりと声を落とした岡部の言葉が耳に届く。どんな注文を北原さんに突きつけるつもりやら、相変わらず抜け目のない野郎だぜ。

肩をすくませて電車のセットに向かう。前回と同じ車両を断面にしたセットだ。立ち位置にスタンバイすると、腕に足に首筋に、女達の指が絡み付いてくる。

「そのまま動かないでっ、じゃあ本番行きます。音楽スタートっ」

エレキギターの前奏が響き渡ると、女達の手が俺の背後で妖しげに舞う。そう、さしずめ俺は何本も女の腕を持つ阿修羅といったところだ。
ヒラリヒラリと女達は、俺の頬を指先でひと撫すると、ノリのいいステップをピンヒールで刻みながら、車両の両脇に座るビジネスマン達の間を歩き始める。ヘッドフォンをつけた男の前でのみ、彼女達は立ち止まると、屈んで口付けを落としていく。

上等なスーツを身に付けながら、中身ははすっぱで刺激的な女達。

唇の痕を、頬や額に塗り付けられた男達はだらしなく喜びの笑みをたたえ、相手にされなかった者は落胆を隠せずに唖然と座っている。

その中の一人、寂しげにぼんやりしている冴えない男に、俺は自分のヘッドフォンを差し出してやる。

電車のドアが開く。

女達を引き連れて下車する俺の背後には、顔中にキスマークを刻印されたさっきの男が、幸せそうに音楽を聴きながら椅子にもたれている。コピーはお馴染みのフレーズ

『ハートのリズムが鳴り響く』

最後にカラーバリエーション豊かなヘッドフォンのアップ。

会社のロゴと、大音量で響きわたるカリスマ黒人ロックスター、レニークラビッツの名曲『Are You Gonna Go My Way』

撮影は順調に進んだ。予定の時刻より少し早めにOKのサインが出ると、スタジオ内に拍手が沸きあがった。

「桂木さん、お疲れ様です」

見覚えのある男が、ペットボトルを手に近づいてくる。壇プロダクションの河田というスタッフだ。

「岡部さんは、自宅の方に取りにいくものがあるって事で、一度帰られました。

代わりにN局に入るまで、私が桂木さんに付くよう言われました」

へ? 岡部の奴、何か忘れ物でもしたのかよ。珍しい事もあるもんだ。手渡されたスポーツドリンクに口をつける。きっと、気をつかって売店で買ってきてくれたのだろう。

あ、やっぱ俺この匂い苦手……。たかが、スポーツドリンク。されどスポーツドリンク。モノによって微妙に香りが違う。

岡部の野郎、抜けるならコイツに俺の好みを言いつけてから行きやがれ。岡部じゃない奴と一緒にいると、こういう違和感を感じることが多い。

大した事ではない。だが、こんな時ふと思うのだ。いかに岡部が俺を知り尽くし、居心地の良い環境を作り出しているかを。仕事の面ではもちろんだ。だけど……。

食欲のない朝に用意される中華粥。
うたた寝した膝に掛けられているブランケット。
眠れない夜に差し出される、ブランデーを落とした紅茶。

まるで世話焼き女房だな。苦笑いを噛み殺す。

いよいよ香港へは来週出発だ。途中、沖縄でのロケなんかも入るが、東京に2,3ヶ月は帰ってこられないだろう。サチに会えないと思うと、チクチクと胸が痛むが、そんなおセンチな事を言っていては男がすたる。

俺が登っていく階段は、これからはより深い意味を持つのだ。頼むぜ、岡部ちゃん。俺を百年に一度のスターにしてみせると、確かほざいてくれたよな。途中で見捨てたりしてくれるなよ。

振り払っても、俺、しがみ付いちゃうからね。アンタという道しるべがなければ、俺は迷子になっちまうんだ。そしてサチが命を吹き込んだ羽で、アンタが指差す場所へと、高く高く舞い上がってみせる。

N局の控え室に入ると、慌ただしく身支度を整える。

「岡部は?」

「プロデューサーとまだ打ち合わせ中みたいです」

何だよ。後で詳しく説明するってアイツ言ってたよな?  今日のインタビュー生放送なんだろうが。こんなんで大丈夫なのかよ。俺の苛立ちが伝わるのだろう、河田がおろおろした顔でこちらを伺っている。

「桂木さん、そろそろスタジオの方に……」

局のスタッフに呼ばれ、控え室から廊下に出た時だった。

開いた扉の脇に、岡部が立っていた。

「んっだよ、遅せぇよ岡部っ。一体何してやがる」

「スタジオに入るまでで話は終わる。歩きながら話すぞ」

涼しい顔しやがって、苛立っている自分が馬鹿みてぇだな。渋々と並んで歩き出す。

「今回の番組は、話題になったアジア映画や俳優を紹介する一時間モノの特番だ。

生インタビューに当てられた15分は元々はウォン・リーの予定だったんだ」

ウォン・リー、あのアジアを代表する若手俳優の?

「今日の昼過ぎに大麻所持で捕まった。この番組に出演する為、成田行きの飛行機に乗る時にだ。ファーストクラスならスルーだとでも勘違いしてたらしいな」

「マジかよ?」

飛行機にわざわざ持ち込むなんざ、正気の沙汰じゃねぇな。

「結構、爽やかなイメージを売りにしていたからな。カムバックは難しいかもしれない」

あ、そういう事。未来がなくなったスターの出番など、ワイドショー以外にはなくなっちまったって訳か。

「ま、それで急遽お前に白羽の矢が立ったって訳だ」

「北原のおっさん、この俺を代役にしようなんて随分いい度胸してるのな。最初から俺の特集にしときゃいいのによ」

「お前がレスリー・ラウ監督の映画に出演する話は、まだ公表してないからな。北原さんはたまたまおととい、壇社長とゴルフに行って耳にしたんだ」

「口が軽いな、ウチの社長さんは」

「映画についてのインタビューは、以前、シュミレーションした事があっただろう。あんな感じでやればいい」

「へいへい」

さっさと終わらせて早く帰りたいぜ。

「プライベートな質問もあるかもしれないが、答えは適当にお前に任せる」

「は?」

プライベートって……。

「桂木さん、こちらにスタンバイお願いしますっ」

よく意味が掴めないままスタジオに足を踏み入れた途端、急かされセットのソファーに案内される。おい、適当って、何の話だよ?  スタジオの隅で腕組みをしながらこちらを見ている岡部に、視線でそう訴えてみたが、今更答えが返って来る訳もない。

「桂木さん、どうぞ本日はよろしくお願いしますよ」

先にスタンバイしていたインタビュアの市川竜之介に声を掛けられる。

「あ、こちらこそどうぞよろしくお願い致します。バタバタと寸前のスタジオ入りで申し訳ありません」

「いや、北原プロデューサーがホッとしていたよ。君なら安心だって。でも、驚いたなレスリー・ラウ監督のご指名がかかったんだって? 今日のインタビューは僕個人としても興味深いよ」

50代位だろうか、短く刈り込んだ白髪交じりの髪にトレードマークの太い黒ブチのメガネ。駄作に対しては、とことんコケ落とす事で知られる辛口の映画評論家だ。真っ直ぐ向き合うと、虚栄など引き剥がされてしまいそうな眼差しに緊張が走る。

「じゃあ、本番行きます!」

おいおい、リハーサルをやる暇も無しかよ。

深く息を吸い込み、目を閉じて肩の力を抜くと、ぼんやりと瞼の裏に浮かんでくる情景。溶けるように青く澄んだあの海がよぎる。上部から降り注ぐライトが熱いほどに俺を照らし出す。だけど、南国の陽射しのように、肌を焦がす事はないだろう。

「今晩は市川竜之介です。今夜は活躍の場を広げ、世界に羽ばたこうとしている期待の星、桂木ユウタさんにお話を伺いたいと思います」

スタートの合図と共に、物慣れた様子で彼は話し始めた。

このおっさん、いい声してるよな。そんな事を頭の隅で思いながら、辛口評論家に向かい合う。いつの間にか、この対談を楽しむ余裕さえ湧いている自分自身を不思議に思った。

「桂木さん、レスリー・ラウ監督のご指名で、新作への出演が決まっているそうだね」

「えぇ、役どころとしては日本人として出演します。撮影は来週から香港で始まりますが、沖縄でのロケも予定されています」

「ハリウッドにも常連なアジアスター達と共演するわけだけど、そこいら辺の心構えとかは撮影を目前にしてどう感じているのかな?」

「日本ではアイドル時代を経て十年のキャリアがあり僕はそこそこ名前も売れています。日本にいると、顔を出すだけで喜んでくれる人たちがいる。ずっとそんな状況で天狗になっていた部分もあると感じています。けれど、向こうでは全くの無名。なんの先入観も持たない観客を相手に、ゼロから自分を試してみるいいチャンスであり試練ではないかと……」

話は、レスリー・ラウの映画に対する評論や、世界的視野を持った最近のアジア映画の話題へと広がりを見せ、気がつくと、カメラが向けられている事も忘れ夢中で話にのめり込んでした。

「いや、君とここまで熱く語り合えるとは感激だな」

話がひと息ついたところで、市川竜之介がそう口にした。そろそろ、残り時間も少ないのかなと思ったら、彼は意外な言葉で話を繋げた。

「ここで素顔の桂木ユウタを紹介すべく、お借りした写真を一枚紹介したいと思います」

ぱっと背後が明るく照らし出された。

一体何事かと、心の中ではうろたえていたが、その動揺を押し隠してゆっくりと振り向いてみた。

これって……さっき瞼の裏を漂っていたあのブルー。四角く切り取ったモルディブの海が、すぐそこで揺れているようだ。

大きく引き伸ばされた写真が一枚、額に入れられ、木製のイーゼルに立てかけられていた。

サチが俺の隣で笑っている。彼女らしい屈託のない笑顔。確か波打ち際に座る俺達を、わざわざ海のほうからアダムが撮った写真だ。海面ギリギリにカメラを下げて俺達を撮影するアダムに、落したらどうすると一瞬どきりとしたのを覚えている。片言の日本語で冷やかしの言葉を投げてくる奴に、サチと二人で笑いが堪えきれなかった。

写真、大した出来じゃないか。こうして見ると、アダムってプロのカメラマンも顔負けの腕前だな。

広がる海が透明なあおいゼリーのようだ。

そこにホワイトサンドが溶け込む波打ち際は、絶妙なグラデーションを彩っている。

アダムに向かって飛ばした水飛沫が、光を弾いて空中に浮かんでいた。

そして、子供みたいにはしゃぐ俺とサチの顔が並んでいる。

一瞬にして心は、遠く離れた南国の楽園へと馳せられしまった。はっと我に返り、正面に視線を戻した俺に、カメラが近づいてくる。

……岡部の野郎、やってくれるよな。

“答えは適当にお前に任せる”

いいのかよ? 俺、サッちゃんに関してはちょっと深いところまで語っちゃうよ。

「今日のエンディングを飾る桂木さんのプライベート写真を番組がお願いしたとは聞いていたんですが、私、今初めて目にしました。いや、素晴らしい写真ですね。こんな表情を是非、映画のスクリーンでも見たいものですな」

「えぇ、今まで踏込んだ事のない色々な役柄に挑戦していきたいですね」

さらりと返してみる。

「隣に写っているのは恋人かな? 君にこんな顔をさせられるんだ。大した女性だね」

サチについて触れないのは不自然というものだろう。

彼は軽いジャブを仕掛けてくる。ありがたい。そうきてくれるとは願ったり叶ったりだ。

「えぇ、最初は僕の片思いでした。誰かを愛するという深い感情を教えてくれた人です。彼女を知って、僕は初めて自分の演技の浅さを思い知らされました。この気持ちを知らずに、何を演じてきたのだろうと。これからスクリーンの中で誰かを愛する気持ちを演じる時にきっと僕は、以前とは異なる視点で主人公に感情移入できると思うんです。自分自身、それがレスリー・ラウ監督の映画にどう生かされるか、楽しみですね」

「役者の仕事は他人の人生を演じる事だからね。演技が上手くても、その心までも伝えるって言うのはやっぱり感情を知らなければ観客には響かないものだ。一生、それに気付かない役者も沢山いる。だが、桂木君はそれに気付いた。いや、その女性に知らされたというべきか……。それにしても君の片思いから始まった恋とは、現実は小説より奇なりってやつだね」

現実は小説より奇なり、上手い事言ってくれる。飲み屋のカウンターで、上司に相談するサラリーマンのような心境だ。人生の先輩ってやつ?

「それにしても、この写真のブルーは素晴らしいね。空や海の青をどう表現するか。それに心を砕く芸術家は沢山いるんだ。映画監督の名の後にブルーとつけて、その作風を表すことさえある。一体何処に行ったら、こんな色彩に巡り会えるのだろうねぇ」

「天上の楽園です」

「えっ?」

「こんな天上の楽園が、地球にはポツリと忘れ物のように存在しているんですよ」

彼は、しばらく黙り込むと、ふっと眼鏡の奥の目を細めて微笑んでみせた。

「いや、本当に今夜は楽しかった。はっきり言って桂木君の印象が変わったよ」

どう印象が変わったのか、多くを彼は語らなかった。

ただ、 「期待しているよ」と身を乗り出して差し出された手の平が大きく、そして熱いと思った。

それでもサチの話は俺なりに緊張していたのだろう。ディレクターがOKのサインを出し、カメラの視線を感じなくなった途端、どっと汗が吹き出した。立ち上がり、市川氏に頭を下げると、彼は再び大きな手のひらで、俺の肩をポンポンと叩いた。

「香港での撮影を終えたあかつきには是非、ウチの雑誌で再び僕と対談させてくれたまえ」

おざなりの挨拶ではない事が、その口調から伝わってくる。

「もちろんです」

再び俺は頭を下げると、岡部に向かって歩き出した。隣には、満面の笑みをたたえた北原のおっちゃんが立っている。歩み寄る俺の姿を認めると、北原さんはパンパンと拍手を送ってきた。

「いや、驚いたよ、きっとこれから局の電話はパンクするだろうな。それにしてもさすが桂木君だ。素晴らしい対談だったよ。それに個人的にもお祝いさせてもらいたいな、君は素晴らしい女性を射止めたようだね」

その言葉に周囲のスタッフが拍手を重ねてきた。

「桂木さん、あの写真、何処の海ですか?  今度私も行ってみたいです」

顔馴染のアシスタントディレクターの女の子が、そんな質問を投げかけてくる。

「こらこら、インタビューは終ったんだし、質問は一切禁止だ。ワイドショーじゃないんだからな」

北原さんが咎めるような口調で制した。女の子は、びくりとした表情で口をつぐんでしまった。鬼の北原プロデューサーにお叱りを受けては恐縮するといったもんだ。俺は彼女の前を通り過ぎる瞬間に歩調を緩め小さく囁いた。

聞こえただろうか?

しょんぼりと足元に視線を伏せていたその子が、はっと顔を上げて俺の背中を見送るのが目の端に映った。

“好きな人と探してみなよ、きっと見つかるから、二人の為の小さな楽園がさ”

サッちゃん
サッちゃん

繰り返し演じてきた。

時には薔薇の花を抱え。

時には愛の証のリングをポケットに忍ばせ。

だけどそんな演出は、スクリーンの中の出来事だと、現実の自分と重ねて考えた事などなかった。

だけど
サッちゃん
サッちゃん

跪いて、この胸に宿る願いを打ち明けたら、君は何て答えるのだろう?


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