さっきの……トンビなんて言ったの聞こえていたのかしら?
桂木ユウタのスピーチを聞いていたら、ふと夜から雨が降ると天気予報で言っていたのを思い出した。あぁ、家を出るときに、天気のことなんてすっかり忘れていた。すっかり忘れついでに、洗濯物も干しっぱなしだ。帰らなきゃっ。
慌ててパーティ会場を飛び出した。青山から銀座線に乗り継いで、東急田園都市線の駒沢大学駅までは三、四十分程だろうか。扉の外に出てから、右に行こうか左に行こうか迷っていた。天然の方向音痴。
「サチさん」
背後から呼び止められる。桂木ユウタとは違う、響く低い声。振り向くと、さっき噂をしていたマネージャーの岡部さんが立っていた。音もなく忍び寄ってくる……鋭い眼光。ほら、やっぱりトンビだ。
振り向いたあたしを、彼はじろじろと黒ぶちのメガネの奥から眺めてきた。怒ってる? あ、やっぱりさっきのトンビって聞こえていたのかしら。あ、でも悪口じゃないんだけどな。
よく、海に寝そべるとすごく高い所にトンビが弧を描いて飛んでいるのが見えるでしょう? 大きな羽をピンと伸ばして、上昇気流に乗って大きな紙飛行機みたいに。あれをカッコいいと大抵の人は思うはずだ。だから、トンビは悪口なんかじゃない。
そんな事をつらつら頭の中で考えていると、後ろめたさが、すぅっと引いていった。だから、真っすぐに岡部さんを見つめ返してみる。
あ、結婚式みたいに、パーティのお土産とかあるのかしら?
一瞬、わくわくした気持ちで彼の手元に視線を泳がせたけれど、何も持ってはいなかった。
「この後、上のラウンジを借り切って内輪の二次会があるのですがよろしかったらいかがですか?」
「は?」
思いもしない台詞だった。
「スゲジュールが合わなくて、今はまだいない俳優とかタレントとか沢山来ますよ」
その時、岡部さんの後ろの大きな窓ガラスに、空から落ちてきた最初のひと滴がポツリと当たるのが見えた。
「あっあ〜っ」
思わず発した奇声に、表情のあまりない彼の目元がぴくりと瞬きするのが見えた。
あ、またやっちゃった。
「すっすみません。あたし、洗濯物が……」
パチパチ。
もうニ回ばかり、岡部さんの睫毛が揺れた。
「お誘いありがとうございます。でも、これから急用がありまして、申し訳ありませんが失礼します。桂木さんにもよろしくお伝えください」
あぁ、絶対に変な奴だと思われた。ぺこりと頭を下げて逃げるように走り出す。だけどその先は……行き止まりだった。慌てて踵を返して戻ると、出口はあっちだという仕草で、岡部さんが人指し指を差しているのが見える。うつむきながら軽く会釈をして、再び彼の前を通りすぎる。
……顔が熱い。あぁ、鈍くさい女だって思われているのだろうな。
“サチって、ちゃんと社会で普通に生きていけるのか、あたしずっと心配だったんだよ”
高校からの唯一の友達、ナオがこの前そんな台詞を言っていたっけ。
“でも、その空想癖が仕事に生かせるなんて、神様はあんたを見捨ててないのね。うん、ある意味すごいよ”
空想癖かぁ……。外に出ると、本格的に雨が降り出した。夜の街灯に照らし出される雨粒は、銀色の矢のようだ。月や星の光を、灰色の雲が覆い隠している。
わかってる。こんなの、ただの自然の摂理だなんて。海からのぼった水蒸気が雲になる。それが湿気をたっぷりと含んで、耐え切れずに滴を落としているだけ。
だけどほら、目をつぶると聞こえてこない? 銀の矢がアスファルトに刺さる音。あの暗い雲の上からどこかの誰かが地上に狙いを定めて……
ひゅんひゅん。
ぽちゃぽちゃ。
そんな風に考えると、びしょ濡れになっちゃった洗濯物への憂鬱もなんだか軽くなるじゃない? もう、洗濯物は諦めて、急いで帰るのは止めよう。生ぬるい銀の矢の心地よいシャワーを楽しむのも悪くない。
『馬鹿っ。サチのバカバカバカっ』
『だから、ごめんね』
五分前からこの台詞を何度繰り返しただろう。雨に濡れてビチョビチョの洗濯物を再び洗濯機に放り込み、シャワーを浴びていると携帯のベルが鳴った。ぺたぺたと濡れた足でバスルームを出て、電話に出ると名前も告げずに興奮した声色が飛んできたのだ。
『ねぇ、出版記念パーティ今日だよね? 頼んでいた、桂木ユウタのサイン貰ってきてくれた?』
返す言葉に詰まった。沈黙が流れた。
ナオは高校時代から、どんなにあたしがボケをかましても、咎めるという事は滅多になかった。仕方ないなぁ、という顔で、そんなトコがサチらしいんだけどねと、苦笑いしていた。
……なのに。
『もうっ、どうせアンタの事だから、部屋の隅でぼーとしていたんでしょう。ねぇ、せめてスマホで写真撮ったりしなかったの?』
『あたしの携帯、お母さんのお下がりでカメラの画質悪くて使ったことないし……』
『一体、何年前の携帯使ってんのよ。スマホじゃないどころか、カメラも使えない携帯だなんて。あ〜信じられない。サチの馬鹿っ。バカバカっ』
『ごめんっ。許してよ〜』
ナオはどちらかというと、そんなミーハーな方ではない。だけど、桂木ユウタともなれば違うらしい。
『次は忘れないから、ねっ、絶対っ』
『絶対って言ったって次なんてあるの?』
『……ない』
携帯を顎にはさんで、バスローブの紐をもたもたと結びながらあたしは答えた。
『桂木ユウタが十年後くらいに自伝を出す時に、また指名してくれたら…』
『もうっ、なによそれ。一生に一度のチャンスだったのに。サチっアンタ週末ランチ奢んなさいよ』
『ふぁい』
『もうっ。なにその気の抜けた返事。全然反省してないね』
もう、どうしちゃったの、ナオちゃん。こんなにも彼女を豹変させる、桂木ユウタマジックに驚いてしまった。
女の子って、皆ああいうタイプに弱いのだろうか。数時間前、隣にいた彼を思い返す。いつも、駅のポスターや街の大型ビジョンで眺めている人が、自分に話かけてくるという感覚は確かに不思議なものだった。
でも、この話は内緒にしておこう。隣で話をしただなんて言ったら、今のナオの怒りに油を注ぐだけだ。いくら鈍いあたしでも、そのくらいは頭がまわるというものだ。
片方の羽が折れた天使。自由のない自分のイメージだと彼は言っていた。意外だった。
あの沢山の綺麗な人達の中で、一番大きなふわふわの羽が似合うように見えたのにね。
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