サチに会うのはこれが三度目だ。
初対面はプロダクションの会議室での打ち合わせ。二度目は一ヶ月前の出版記念パーティ。三度目にして、やっと個人的に親密になるチャンスにありつけたという訳だ。
緊張している俺をよそに、サチはベランダから見える海にはしゃいでいる。木成りのチュニック、洗いざらしのジーンズ。結いあげた長い髪を、頭のてっぺんでまとめている。ムーミンに登場するミーみたいだ。
化粧っけのない顔があどけなくて彼女らしい。あんまりにも、自然な風貌に、さっき来たばかりとは思えない錯覚。
今日は仕事抜きだから当然なのだが、あまりにも素の彼女を目の前にして、どう振る舞っていいのか途方に暮れていた。
そうだ。岡部……オカベちゃん。
助け船の姿を探すと、ヤツは丁度吸い終わったタバコを灰皿に押しつけているところだ。は、なにその薄ら笑い。俺の心の内を見透かして、ざまぁないね、と言いたげな視線を投げてきやがる。
「俺、帰るから。帰りは彼女、タクシー呼んでやってよ。間違ってもお前、自分の車で送ったりするなよ」
すっとタクシー券を俺に差し出してくる。
「岡部ちゃん、……さぁ……腹減ってないの? 俺さぁ、ほら、岡部ちゃんの好物のホロホロ鶏作ったんだよね」
「は? お前自分の言ってる意味わかってんの。ここに加わる程俺は無粋な神経してねぇぞ。ガキのグループ交際じゃあるまいし。いや、そんな言葉、死語だね」
言い返す言葉に詰まる。弱みをがっちり握られちまった。
「お前はオフでも、俺はこれから事務所に行って例のレスリー・ラウ監督の映画の件で打ち合わせだ」
「へ、そうなの?」
岡部は俺の前を素通りすると、ベランダにいるサチに声を掛けた。
「サチさん、私、仕事の都合で先に失礼します。帰りにお送りする車の事は桂木に申しつけておりますので。ランチは彼が腕をふるった料理を楽しんで下さい」
背後から不意打ちに声を掛けられて、ビクっとサチは振り向いた。
「あ、えっ? 桂木さんが料理なさるんですか?」
「こいつの腕はなかなかですよ。サチさん、ご存じですか? 桂木が昔やっていた料理番組」
「……ごめんなさい。あたしテレビあまり見ないものですから」
あのゴールデンタイムに1年半もやっていた番組を見たことがないという人間に初めて会った。まさか、俺の名前も知らないで仕事を受けたのだろうか。
こういう人、居るんだ……業界でどれほど顔が広いかとか、今旬の芸能人とどれほど親密かだとか、それがご自慢のうわっつらの世界。ましてや、一般の人間ほど、芸能界と関わりがあることを誇大して吹聴するものだ。
なのに、サチはてんで無関心。いや、あえてそういうポーズをとっているだけなのだろうか?
「岡部さん、今日はすみませんでした」
じゃあ、これでと踵を返す岡部を引き留めるように、サチはそう言うとペコリと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。では失礼します」
淡々とした岡部の声。おいおい、愛想ってもんに欠けてんだよ。
奴は再び俺の前を横切ろうとしたタイミングで、ボソリと呟いた。
「ユウタ、ちょっと変わった趣味だな」
熟練の技というか、擦り抜けていく奴の片足をすくい上げてやる。これも熟練の反射神経というものだろう。一瞬よろめいたものの、次に踏み込む一歩は、ダンスのステップのような優雅さで岡部は体制を整えてみせた。次の攻撃や防御を頭でシュミレーションしながら、お互い一瞬身構える。
くすくす。
張り詰めた空気に、サチの小さな含み笑いが響いた。岡部は俺の気が乱れた隙をついて、するりとドアの外へすり抜けて行った。
「岡部さんと桂木さんって……クラスメイトって感じですね」
サチが白い歯をちらちらとのぞかして屈託のない笑い顔を見せている。打ち解けた雰囲気になって胸をなで下ろす。岡部マジック。とりあえずさっきの一言は水に流してやろう。あいつに女の価値なんて分かるはずがない。
「あぁ、岡部はデビューしたアイドル時代にグループを組んでたんで、まぁクラスメイトみたいなものですね」
「えっ。岡部さんアイドルだったんですか?」
サチはさっき、テレビをあまり見ないと言ったが、もしかしたら、テレビを持っていないの間違いではないだろうか。人気絶頂の岡部が、俺のマネージャーになると告白した会見は、一大センセーショナルだった。
あれから六年。忘れ去られるにはあまりにも強烈な印象……。
「どおりで絵になる人だなぁって思いました」
チクッ。
なんだよ、今の。
「黒ぶちの眼鏡、今度外して見せて欲しいです。ちょっとおすましさんだけど、綺麗な瞳ですよね」
チクッ、チクッ。
裏の嫌らしさのない、素直な言葉なだけに何だかグサグサくる。まさか……嫉妬? よりによって、この俺が岡部に妬いてるなんて。
サチは気持ちのいい程に食欲旺盛だった。残ったソースをパンで拭って、洗う必要がないほどに皿をぴかぴかにしてみせた。
「うわぁ、崩すのもっいないっ」
盛りつけの美しさに目を丸くし、最初のひと刺しだけ申し訳なさそうにプスリとフォークを突き立てる。そして一口頬張った後は、嬉しそうにザクザクと豪快に切り分け口元に運んでいくのだ。
一流レストランにすまして座り、色々と残す理由を並べては罪悪感の欠片も見せないような女とばかりテーブルを囲んでいた。男に対する感覚と同様に、美味しいトコだけ切り分けるのが彼女達の得意技。小さく刻んだ肉片を、口紅を少しも乱す事なく喉元に滑らせていく。
ねぇ、そんなちっちぇ肉、味するのかよ。
でも、そんな女の様子を眺めながら俺だって何を考えていた? どのレベルのおつき合いにしようかなどと、頭の中で値踏みしていたじゃねぇか。
狸と狐の化かし合い。ま、似た者同士の晩餐会って訳だ。
頬っぺにソースがついてるよ。
サチの前に座る俺は、まるで子供の世話をする母親の心境だ。困ったものだと苦笑いしながら、温かいものががひたひたと満ちていく幸福感。抹茶のソルベの最後の一口を、満足そうに口に運ぶと、サチは両手を合わせてご馳走さまの仕草をした。
「もし、良かったら俺のも食べる?」
まだ手を付けていないデザートの皿をサチの方に差し出す。彼女、一瞬嬉しそうな顔をしたんだ。なのに申し訳なさそうにブンブンと首を横に振ってみせた。
「俺、食べきれなくてさ。じゃあ、そっち側から手伝ってくれる? 半分こ」
テーブルの真ん中に置いたデザートの皿を分け合う。大きめの丸形に盛り付けた、抹茶のソルベを両側からスプーンてすくっていると、サチが可笑しそうに言った。
「砂場のトンネル掘りみたいね」
ほら、彼女の瞳がぴかぴか輝き出した。派手な宝石なんかとは違うんだ。わくわくした気持ちを弾いて光る、そんなビー玉色の輝きが、サチの瞳をオブラートする。
俺が好きな彼女らしさ。不意にその姿を目にしてしまいうろたえてしまう。
ガチャッ
思わず、不自然に引っ込めたスプーンの先がワイングラスに当たった。ゆらゆらと満たされた華奢なグラスが揺れたかと思うと、サチの方に倒れていった。
バシャッ。
よりによって赤ワイン。アイボリー色のチュニックの胸元が、ピンク色に染まっていた。
「うわっ。ゴメンッ」
サチはポカンとした顔で、一瞬固まっていたが、スプーンに乗っかったままのソルベに気付くと、ちゃっかりと口に放り込んだ。
「あ、もうこんなの絵の具使ってるといつもの事なんで、全っ然っ気にしないでください」
全っ然……って言ったって。うろたえる俺に、サチは 「あ〜早くそっちもっとほじくって下さいっ。トンネルが溶けちゃいますっ」と促してくる。
ほじくってって……。
彼女はとにかくソルベにトンネルを貫通させる事に夢中なのだ。焦ってお望みのままに食べ進める。
カチッ
しばらくすると、二人のスプーンが小さな音を立ててトンネルが繋がった合図を響かせる。サチは、にやりと満足そうに口元を緩めると、身を屈め、片目をつぶって、ソルベのトンネルを覗き込んだ。
「桂木さん、グッドジョブ」
親指を立てて俺を褒めたたえるサチに、反射的に同じ仕草で応えてみせる。
「じゃあ、残りも頂きましょうかね」
サチはそう言うと、しゃくしゃくとソルベのトンネルをスプーンで崩しながら食べ始めた。
彼女の行動は全く予測不可能だ。ランチのテーブルを遊び場に変えてしまう女なんて会った事もない。
食べ物で遊んでは駄目よ。
そう母親に咎められたのは子供の頃だ。駄目と言われると、余計にやってみたいと思うのが子供心。だけど繰り返される母親の叱咤にいつしか興味も薄れていった。
だけどこんな年になって……何だかおかしくて仕方がない。大人の男なんて言われているこの俺が、抹茶のソルベでトンネル堀だなんて。