まさか、ショートボブのベッピンさんにキスされるとは思わなかったな。独り、アパートの部屋のベットの中で、一日の出来事を思い返す。
『君が好きなんだ』
と、桂木ユウタは言った。
『前に君の絵本で写真を見た時から、一目惚れ』
ごそごそとベッド脇に置いてある手鏡を取って自分の顔を写してみる。写真を見て一目惚れって……あんな綺麗な顔の人にそう言われてもなぁ。だけど、彼はお財布の中から証拠品として、本当にあたしの写真をごそごそと取り出してみせたのだ。
ぱちくり。
びっくりした。だって、人のお財布から自分の写真が出てきたら、驚くよね。
あ、眠い。今日は一日よく歩いたもの。楽しかった。うん、よく遊んで充実した一日。カップルでデートというにはちょっと違ったかもしれないけど。相手ショートボブだし。
ピピッとメールの着信音が響く。携帯のディスプレイにはまだ慣れない名前。
“今日は驚かせてゴメン。また、ゆっくり会いたいな”
帰り際にお互いのアドレスを交換した。また、会いたい……か。なんだか実感がわかない。だけど、また会ってもいいかなと思う。恋が始まるかなんてわからないけれど、彼の柔らかい唇は悪くなかったかもね。
岡部さんから電話が来たのはそれから一週間後だった。
『壇プロダクションの岡部ですが……』
ちょうど例の堕天使に色を乗せていた所だったので、また 「トンビっ」という一言が喉元までこみあげた。危ない。危ない。
夕方、待ち合わせに指定されたのは日比谷のホテルのカフェだった。喫煙可能な奥まったスペースだったがテーブル同士の間隔は広々としていて、ゆったりしたソファーはうたた寝に最適そうだ。
桂木さんもいるのかなと思ったら、ソファから立ち上がりあたしを迎え入れたのは岡部さん一人だった。メニューを広げる。紅茶千円ってすごい値段だ。
「サチさん、眉間に皺が寄ってますよ。ご馳走しますから、ケーキでも召し上がってください」
着物姿のウェイトレスが置いていったイチゴのミルフィーユを一口頬張る。ふわりと品のいい生クリームの香り。至福のひとときを味わっていると、唐突に岡部さんは口火を切った。
「桂木はあなたに随分と執着しているみたいですね。だけど、彼とは普通の恋人のように付き合うことは出来ないのだとよく理解して頂きたい」
「……はぁ」
よく理解?
「あいつも二十八だ。浮いた噂のひとつやふたつ、なかった訳じゃない。ただ相手は皆、芸能人……いわゆる同業者でした。マスコミに対しての立ち振舞を心得た相手ばかりだった」
岡部さんは口の端に煙草を咥えると、様になる仕草でライターから火を移した。キャメル色の品が良いドレスシャツを、ジーパンでカジュアルダウンした装い。
今日はいっそう夏に近づいた陽気だったというのに、長袖でも涼しげな印象をもたらす岡部に感心する。
「もし、二人の関係がバレたら、サチさんのような一般の方には耐え難い執拗な取材攻撃があることでしょう」
「はぁ……」
「私はね、サチさん、あたなと桂木が付き合うのを邪魔する気なんてありません。ただ、二人が会うにあたって、どうしても人目を忍ぶ必要があるという事を理解して頂きたい。そして、その橋渡しとして、私が介入する事を承諾して欲しいのです」
なんとなく視線は、岡部さんが手にしているカップの中身を追っていた。きっと、お砂糖もミルクも入っていないブラックコーヒーなんだろうな。
話の内容は理解出来た。やっぱり不思議なのは、あたしなんかに桂木ユウタが興味があるということ。岡部さんまでこの話に加わるとなれば、ただの冗談ではないようだ。
「あのぉ、よく、女は芸の肥やしって言いますよね……」
格好良く、岡部さんの口元からこぼれていた細い煙草の煙がボワっと広がるのが見える。
「だけど、あたしなんて大した肥やしにもならないと思うんですよ」
ゲホッ。今度は蒸気機関車のように、彼の口から煙が吐き出された。
「……いや、桂木は貴方から芸の肥やしなんて、求めちゃいないと思いますよ」
むせた声色で、また連絡しますからと、岡部さんは伝票を手にすっと立ち上がった。ラウンジに座っていた女の子の視線が、一斉に彼に注がれるのがわかる。綺麗な振り袖を着た、結婚式の帰りらしいグループが、身を寄せ合ってひそひそ話をしながら、ちらちらと彼の後ろ姿を見送っている。
皆、彼が元アイドルだと知っているのだろうか。ただ、上等な男に対する賞賛の眼差しなのだろうか。
だけど、この男に背中まである黒髪のウィッグをかぶせて、編み上げのエナメルブーツを履かせたらどうだろうと、そんな妄想をしてしまうのは、やっぱりあたしだけなのかしら。
最近、長年愛用していた携帯が壊れ、ついに機種替えをした。スマホは馴染めなくてやっぱり携帯にしたのだが、カメラの画質のよさに驚愕する、時代の流れを感じた。
なるほど、これが写メールってヤツか……小学校の頃、仲良しの友達と交わしていた交換日記みたいだ。違うことは、手渡ししなくても一瞬で相手に送れる事。
桂木ユウタからは毎日メールが届いた。ロケだ何だで外出も多く、撮影した地方の景色が添えられている事もしばしばだ。
映画の撮影のための凝ったミニチュアセット、子役の子供のおどけた笑顔、時代劇の小道具。芸能人ならではの交換日記メールを彼は送ってくる。
だから、あたしも返事を返す。その日、目にした徒然なる日常の写真を添えて。
色々な雲の形、猫の目のような三日月、ビニール傘に張りついた雨粒。
そして桂木ユウタからの返信は、大人の彼にふさわしく、少し色っぽい文章が添えられちゃったりするのだ。
会いたい。
君に会いたい。
抱き締めてキスしてもいい?
ディズニーランドから1か月以上経っていた。彼のスケジュールは殺人的だ。そんなある日、岡部さんが車であたしを迎えに来た。デートといっても電話がかかってきたのはついさっきの出来事で、今は夜の八時近く。急な呼び出しだった。
「いつも、こちらの都合で振り回して申し訳ない」
助手席に滑り込んだあたしにちらりと視線を移して、彼はぽつりとそう言った。
「仕事が進まなくて気分転換したいトコだったので、丁度良かったです」
車は駒沢通りを入っていく。反対車線に連なった車のテールランプが、岡部さんの頬を赤く照らし出していた。
「なかなか時間が作れないから、いい加減桂木も限界みたいで……」
「本当、忙しいんですね役者さんって」
「昨日、映画の撮影がクランクアップして、やっと一段落したんです。さっき沖縄から東京に戻ったばかりなんですが」
「えぇ、沖縄の海の写真、桂木さんのメールで見ました。すっごく綺麗」
「仕事で行っていると、全然楽しむ余裕なんてないんですよ」
そんなものなのか。もったいないな。
「今日は、パパラッチみたいのが、マンションの周りをうろうろしてましてね、桂木には今日、あなたと会うのは止めた方がいいって言ったのですが……聞かなくてね」
「パパラッチ?」
「ぶんぶん追いかけ回してくるハエって意味で、まぁ、いわゆるスキャンダルを狙うカメラマンって奴です」
洒落たマンションの前に岡部さんは車を止めた。車庫に入れる前に、そこのコンビニまで付き合って欲しいと言い出した。
「いいですよ」
カチャッと助手席のドアを岡部は外から開けてくれた。あ、何か甘い物食べたい気分。コンビニ行きついでに、おやつを仕入れようかな。
あれ? 車から降りようと思ったら、見慣れない物が目の前にある。手。岡部さんの大きな手のひら。えっと、エスコートってヤツですか? 車の外に出ると、驚いた事に岡部さんはあたしに微笑みかけてきた。
「夕立の雨が残ってるから、足元に気を付けて」
歩き出すと、ふわりと肩に手を添えてくる。この人のこんな優しい顔、見たことないんですけど……。
歩いて一分程の距離にあるコンビニで、彼は煙草を手にとった。あたしがプリンにしようか、クレープにしようか迷っていると、両方ひょいと持ち上げてレジで清算してくれた。コンビニから車までの短い距離、今度は手を引かれる。桂木ユウタとは違うひんやりした温度。
……あぁ、そういう事か。車を止めたマンションの向かいにある小さなコインパーキング。そこからこちらを伺ってくる視線に気付きあたしは納得した。少しくらいは協力しなくちゃね。
車に到着する手前であたしは足を止めた。彼の手を引き寄せ、つま先立ちして内緒話のように耳に唇を近づけてみる。
「岡部さんも役者ですね。あたしもエキストラくらいの器量があるといいんですけど……」
彼の腕に甘えたように腕を絡めてみせる。ちょっとだけ目を見開いて、彼はあたしを見つめた。そして薄い唇の端をゆっくりとあげてみせた。くしゃくしゃっとふざけた仕草で、髪を悪戯される。皮肉っぽい笑顔。こんな表情の方が、やっぱりこの人らしい。
偽装カップル誕生。仲良しさんに見えるかしら?
だけど、あの車の陰でかくれんぼしているパパラッチは、あたし達の記念写真を撮ってはくれないんだろうな。
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