「カナ〜っ。ほら、こっち」
ワンワンッ! 一心不乱に追いかけてくる姿が微笑ましい。駒沢公園で散歩している数多くの犬の中で、一番ベッピンさんだなんて親馬鹿な気持ちになる。まだ二度目だというのに、カナは飛びついて再会の挨拶をしてくれた。
「カナは、よっぽど君が気に入っているみたいだな。本当はすごい人見知りする恥ずかしがり屋なんだよ」
「ふふっ。嬉しいな」
「いつも、散歩っていっても住宅街を歩くだけたから、公園っていうのもたまにはいいもんだね」
北原さんは、寛いだ様子でベンチに座りながら、はしゃぐあたし達を眺めている。
「仕事忙しいの?」
北原さんのど真ん中の問いかけに、一瞬言葉を失った。
「寝不足ですって顔してるよ。悪かったかな急にお誘いして」
「いえ。ここ何日も部屋にこもりきりだったので、外ですこし身体伸ばしたいと思ってたんですよ」
「そう。若いうちは仕事を夢中でやるのも悪くないけど、飯はちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
「はい」
心配してくれている口調をありがたく思い、素直に頷く。
「じゃ、飯にするか」
「え?」
北原さんは、ベンチの脇に置いてあった包みを取り出した。
「ウチの奥さんが持っていけって」
「えっ、奥様が?」
「結構イケるよ。彼女は用があって散歩には参加出来なかったんだけど君の分も作ってくれた」
五目いなり、チューリップチキン、卵焼きには刻んだ鰻がまぶしてある。
「わっ。うわぁっ美味しそう」
ここ数日、コンビニのおにぎりを齧る毎日だった。そういえば、朝もコーヒーを啜っただけだ。
ぐぅ〜〜〜〜。
はっ、やばいっ。あたしのオナカってなんて素直に反応するんだろう。芝生に広げるラグまで北原さんは用意していた。ピクニックみたい。
美味しいっ。お料理上手な奥さんなんだな。お重を包む、紺地に赤い椿柄の風呂敷も粋なセンスだ。
「素敵な奥様ですね。北原さんって、幸せ者」
いやいやと、目尻の皺を深めて彼は照れ笑いをしている。
「他人の二人が結婚して、子供を育てて、一緒におじいちゃんとおばあちゃんになっていく、当たり前のようで、すごい事ですよね」
公園のランニングコースを、親子連れ、恋人同士、様々な人達が通りすぎていく。ぼんやりと眺めていると、自然とヒロの事を考えていた。あの日のヒロを……。
ユウちゃんを好きだというあたしの気持ちに嘘はない。どんなレベルで? と問われれば、あたしなりにとしか言いようもないのだが。ヒロのような、あんな深い愛を知らない。同性というハンデがなければ、もともとあたしなんて出る幕もなかったと思う。
「どうしたの? 悩み事でもあるのかな」
はっと、顔を上げると、北原さんがあたしの口元を指さしている。
「ぼんやりしながら3分はそうしてたよ。割りばし美味しいかい?」
やだ、割りばしを咥えたままだった。かなりお行儀悪いよ。あたふたと、訳もなく正座を座り直したりしてみる。
「君は本当にわかり易い人だよね。ま、もしよかったらおじさんに話してみたらどうかな。年の功って言葉もあるだろう」
相談って言っても。ヒロの話なんて出来るわけもない。だけど、北原さんの場数を踏んだ男の貫禄にちょっとそそられるものがある。あたしとは全く違った視点で物事を分析できるんだろうな。
「無償の愛って、どう思いますか?」
ごほっ。
気道に米粒が侵入したような大げさな咳払い。
ごほっ。
あたしは、チェック柄のアラジンポットから麦茶をくむと、北原さんに手渡した。ありがとうという仕草を見せると、彼は一気にカップの中身を飲み干した。
「君みたいな若い女の子の不倫はいただけないな。いや、説教なんてする気もないけど、もう少し恋愛経験を積んでからなら不倫の醍醐味も味わえるかもしれないけどね」
へ? 不倫。
「ちっ違いますよ。やぁだ北原さん」
思わず彼の逞しい肩を叩くと、バンッと豪快な音が鳴り響いた。あ、やりすぎちゃった。
誤魔化すように、あたしは話を続けた。
「えっと、見返りを期待する事もなく、ずっと愛を注ぐなんて出来るものなのかなって。それも、すごく近い距離にいながら、相手に悟らせもせず」
北原さんが困った表情を見せた。まいったな……小さな溜め息と一緒にそんな呟きが聞こえた気がした。
「私的な話になっちゃうけどね」
早速、そう話はじめた彼をさすがだと思う。積み重ねた経験の引き出しが沢山あるんだろうな。
「例えばね、今日のこの愛妻弁当だけ見てみれば、何の問題もない理想の夫婦に見えるかもしれない。だけど現実はちょっと違ったりするものなんだ」
カナに小さく千切ったウィンナーの欠片をあげながら、北原さんは意味深な事をぽつりと口にした。あたしはまばたきもせず、耳をじっと傾ける。
「夫婦ってやつはさ、まぁ、いつの間にか一緒に居てあたりまえの存在になっていたりする。特に子供なんて出来ると尚更ね」
うん。良かった。北原さんって分かりやすい説明をしてくれている。専門用語みたいなのばっかりで難しい話だったらきっとあたし解読不能だもの。
「だけど男ってもんは欲張りでね、やっぱり女を求めたりするもんなんだ」
ふぅん。そうなんだ。
「毎日一緒にいて、子育てと家事にいそしんでいる奥さんは家族になっちゃって、その安心感に男はちゃっかりあぐらをかいたりする」
カナがぺろぺろと北原さんの指を舐めている。眺めているだけでこそばいな。
「ちょっと前にバブルなんてものがあってね。世の中がそりゃ浮き足だっていた。テレビ関係者だっていうだけで振り払いたくなる程に女の子にモテたりしてさ、すっかりいい気になっていたんだよね」
若かりし日のモテモテの北原さん、なんとなく想像出来る気がする。
「仕事だってカコつけて、ほとんど家にも帰らない毎日だった。そしたらある日、親友に呼び出されてさ、言われたんだ」
北原さんの口調が急にうわずったものに変わった。視線は遠くを見つめ、その時の情景を思い描いているかのようだ。
「娘も含め、彼女を引き受ける覚悟はいつでもできているからって……」
えっ? 思いもしない話の展開に一瞬息を呑む。
「奴とは妻と共々、同じ大学の腐れ縁で、その時点でも十年来の付き合いだった。いい男でさ、よくそいつのGFと4人で出掛けたりしてた。そのGFってやつもとっかえひっかえ綺麗な子ばかりでね。既に、妻と恋人同士になっていた俺はその自由さがちょっと羨ましいとさえ思っていた。僕と彼女とそいつ三人だけでつるむっていうのも日常でさ、親より先に俺達の結婚の報告をしたくらい親しかったんだ」
北原さんの心の動揺を感じるのか、カナが彼の膝にそっと寄り添う。北原さんは、カナの頭を撫でて話を続けた。
「そんなアイツに妻と娘を引き取るなんて言われて驚いちゃってさ。なんせ、その時の自分の基準で物事考えちゃうから、思わず言っちゃったんだ“お前ら出来てたのか”って。……そしたら、思いっきり殴られた。自分はともかく、彼女を侮辱するのかって」
そっと北原さんは頬を撫でた。古傷が痛むようにそっと。
「穏やかな奴だったから怒った顔なんて初めて見たんだ。本気だと思った。一体いつから……きっとずっと昔からなんだろう。妻は気付いていたのかどうか、結局はうやむやなままなんだ」
ざわっ。風が吹き抜けていく音が周囲を包む。あのヒロのマンションのテラスで感じた風よりもずっと、秋に季節が移り変わった事を感じさせる。
「俺達の結婚の報告を、アイツどんな気持ちで聞いていたんだろうって今でも思う。彼女は俺なんかより奴と一緒になるべきだったんじゃないかって」
「それから、どうなったんですか?」
いてもたってもいられず、せかすように問いただしていた。北原さんは肩をすくめてみせた。
「女遊びとは縁を切って、マイホームパパに変身したのさ。さらわれないよう、彼女が心変わりしないように。そう心を砕いていると不思議なことに常に恋している気持ちになる。……いや、のろけている訳じゃないんだけどね」
はにかむように北原さんは笑って見せた。照れくさそうに。
「奴は戒めなんだ。俺みたいな男にはそれくらいの切迫感が必要みたいでさ。もしかしたら、だらしなかった俺にカマをかけただけなのかもしれない。だけどあの時の奴の押し殺したような燃える瞳が、忘れられなくてね」
「その方は今でも独身なんですか?」
「ああ。そう、いい年になってもモテる野郎でさ、いつも綺麗なお姉ちゃんを連れてるよ。独身貴族ってやつ」
北原さんの親友。もちろん会ったこともないのだけれど、どうしてもヒロと重ねてしまう。
きっとその人はただ好きな人の幸せを願っただけなんだろうな。彼女が愛した相手は北原さんだったから……。
「何だかただのオヤジの昔話で、あんまり答えになってないよね。ただ、無償の愛なんてさ、つまらないよね。指を咥えているだけで手に入らないんだから。でもそんな愛を知っているアイツが羨ましいとも思う。人それぞれだな。僕は欲張りだから無理だけどね」
遊んで、遊んでっ。しびれを切らしたカナがあたしに擦り寄ってくる。ピンクのゴムボールを投げてあげると、尻尾を振りながら取りに行った。
「君じゃないでしょ、無償の愛」
「えっ、どうしてそう思うんですか?」
「秘めた愛。平静を装うには、君はわかりやすすぎるよ」
ボールを咥えて戻ってきたカナの口からそれを取り上げると、北原さんは、ポ〜ンと投げてみせた。カナが再びぶんぶんと尻尾をふって、嬉しそうに追いかけていく。
えっ、あたしってそういうタイプじゃないのかな?
…やっぱり?
「若いうちは、ただ想いに身をまかせて愛せばいい。しがらみもなにも無く心のままにね」
心のままに……。目を閉じて自分の想いに身を任せてみる。浮かんでくる人はただ一人だった。ユウちゃん。いつのまにか少しずつ、少しずつ、彼が注いでくれた想いは、あたしを包み満ちあふれていた。
ユウちゃんという海に漂っていたら、いつの間にか優しい波に呑まれ溺れてしまった。
ユウちゃん。芽生え始めたこの感情は、ヒロの深い愛になんて遠く及ばない未熟なものに違いない。上手な愛し方なんて知らないけれど、あたしなりに貴方を愛してみてもいいですか?
うわぁ、日本人ばっかりだ。到着した南の島の空港は、日本人でごった返していた。成田からの直行便だから当たり前なのかもしれないが、日本から遙か離れた南国にいるとは思えない違和感を感じる。
この国の名はモルディブ。インド洋に浮かぶ小さな小さな島々が連なる楽園。ひとつの島にはひとつのリゾートがあって、ホテルの名前がそのまま島の名称になっているのだそうだ。
モルディブ……耳にした事があっても、縁もゆかりもない場所だった。でも、入国した日本人の多さを見ると、わりとメジャーなビーチリゾートなのだろう。
ユウちゃんはヨーロッパの方を経由して全く違うルートで明日到着する予定だ。あたしは空港のそばのホテルに一泊して、明日彼と水上飛行機に乗り、ドーニ・ミギリという名の島に向かう。
さすがヒロ。ユウちゃんが、あたしと同じこの日本人だらけの直行便だったら、きっと大騒ぎになっていただろう。
現地のガイドがあたしの名を掲げたプラカードを持って立っていた。褐色の肌に映える白い歯を覗かせながら、流暢な日本語で話しかけられ不思議な気持ちがした。あれ? ちょっとイメージか違う。英語、どうしようと構えていただけに、ほっとしたような、拍子抜けしたような。
暗闇に紛れた海の潮風だけが、異国の香りを運んでくる。遠目に見える何列も連なる桟橋には、近場のリゾートの船が、到着したゲストを運ぶために停泊していた。ちょっとだけ桟橋を覗きに行ってもいいかと、ガイドに頼み、一人偵察に行ってみる。
手慣れた様子で桟橋にくくりつけたロープをほどいたり、スーツケースを次々と船に積み込むモルディブマンの手さばきを感心しながら眺める。現地の言葉なのだろう。独特のアクセント。まくしたてるような早口で仕事をこなしながら男達が笑い合っていた。
ブルンッブルンッ。車とは異なるエンジン音をボートが鳴らし始める。黒い海面に白い軌跡を泡だてながら船は次々と遠ざかっていった。やはり、こんなビーチリゾートを訪ねるのはハネムーナーが多いのだろうか。船に乗り込んだゲスト達は皆、そっと寄り添ってそれぞれのバカンスへの出発に瞳を輝かせている。あらかたの船が出発してしまうと、明かりが無くなったせいか、桟橋の先っぽにしんとした暗闇が舞い降りてきた。
どくん。
どくん。
不意打ちのように溢れ出した星の輝きに胸が高まってくる。すごい星の数。弧を描いて光を放ちながら滑り落ちていく流れ星。そんな物を目にしたのは初めてだった。沸き立つ思いを押し殺して固く瞼を閉じた。
明日、ユウちゃんと見よう
。
一緒にこのワクワクを分かち合いたい。
そう思いながらも、片目でちらりと覗いてしまい、自分の意思の弱さに苦笑いがこみ上げる。
明日、明日。
呪文のように繰り返しながら、再びゆっくりと瞼を閉じてみた。
にほんブログ村↑ ↑ ↑
ランキング参加しています
応援していただけたら励みにします