楽園の長い一日(ユウタ)22話

投稿日:2018-10-14 更新日:

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シャワーの後の結い上げていないサチの髪はまだ湿っていて、少し重そうに潮風に揺れている。滑り出したドーニが、何処までも蒼い世界に、白い軌跡を刻みながら進んでいく。

“ああいう女を天然っていうんだな”

成田に向かう車の中で、岡部が思い出し笑いをしながら、話していた様子を思い出す。

“旅費をさ、どうやって払おうか気を揉んでいたみたいでさ、二十四回の分割でカード払い出来るかって、すごい真面目な顔で聞かれて参ったよ”

サッちゃんらしくて、微笑ましい話だ。お得意の嫌味な仕草も見せず、目を細めて笑いを堪えている岡部。いさぎのいい男だ。ごめんねと、言ったサチに再び手を出すような奴じゃない。だけど……俺は断ったのだ、成田には自分の車で行くからと。なのに、有無を言わさずに助手席に引きずり込まれた。

“サチと一緒なら一日中、退屈しないな”

空港の出発ロビーで、別れ際に言われた台詞。

あの夜、覗き見してしまった、岡部の途方に暮れた顔。サチの腕の中で、泣いているのではとさえ思えたあの眼差し。どんな気持ちでサチの元に旅立つ俺を送り出した? いくらポーカーフェイスのアンタだって、心の中はざわめいていたはずなのに。

この島に着いてから、時々サチが見せる嘘笑いに俺は気付いていた。困ったように視線を泳がせて笑って見せる。そんな時は決まって、一瞬、押し黙って何かを考え込んでいるみたいだ。たった今だって……俺がそっと後ろからサチを覆うように両手を重ねると、一瞬はにかんだくせに、押し黙って海に視線を流してしまった。ちらりと斜め上から覗き込むと、迷いを滲ませた瞳で、じっと一点を見つめていた。
もしかして、後悔しているの? そんな不安で全身の血が凍りついた時だった。

「ドルフィンッ」

アダムが指を差して叫んだ。

えっ? 反射的にアダムの指が指し示す方向を見ると……。

「すげっ。サッちゃんイルカだって」

踊り出すように飛び出して、サチが海を覗き込む。興奮して、きゃあきゃあと叫びながら、身を乗り出す姿が危なっかしいったらありゃしねぇ。

俺の腕の中にいなきゃ駄目だよ。そっと背後から華奢な身体を抱き寄せる。

「あんまり覗き込んだら、海に落ちちゃうよ」

咎めるようなからかった口調で声を掛ける。不意打ちに、サチの背中が、そっと俺の胸にもたれかかってきた。

ぴたっ。ビキニ姿の背中は、ほとんど素肌のようなもので、パーカーからはだけた俺の胸に、直接サチの体温を感じる。

どくんどくん。

みるみるまに自分の鼓動が早くなるのがわかる。少し間を置いた後、サチは更に力を抜いて、背中を俺の胸に預けてきた。斜め下から覗く瞳が、ゆっくりとこちらに動いて視線が絡む。ちょっと恥ずかしそうな、だけどいつものビー玉の笑顔。

こんな風に甘えられるのなんて、初めてだ。さっきまでもんもんとしていた不安が一気に吹き飛ぶ。女々しかったさっきまでの自分を殴り飛ばしたい気分。

サチは俺を選んだんだ。何に怯える必要がある? 二人だけのドーニ、二人だけのコテージ。楽園の案内人アダムに願い事を囁けば、夢のような時間が差し出される。

俺はそっとアダムに目くばせをした。何もかも心得た視線を奴は返してみせると、手際よく用意したシャンパンのグラスを運んでくる。

「二人きりのバカンスに」

グラスが音をたてるのと同時に、そっとサチに唇を重ねる。久々の感触に堪らず味わうように深く口付ける。グラスを持たない空いた手で、サチは俺のパーカーを小さく握りしめてきた。シャンパンに口を付ける前から、この唇に酔ってしまいそうだ。

ねぇ、わかっているから俺。自分の方が情けない程に入れ込んじまっているなんて、わかっている。同じように愛してくれなくて構わない。さっき、背中を預けてくれたみたいに少しづつ、君なりに俺を愛し始めてくれればそれでいい。

ぱくぱくと金魚みたいにサチの呼吸が苦しげだ。そっと唇を離すと、うるんだ瞳のまま、深く息を吸い込んでいる。このままキャビンのベッドに運び込み、何もかも奪ってしまいたい。

何度か息を吸い込むと少し落ち着いたのだろう。サチが手元のグラスを口にしようとした。だけど、シャンパンはほとんど零れてなくなっていた。俺は照れ隠しにおどけながら、自分のグラスを傾けて半分おすそ分けをしてあげる。

「ずるいな、ユウちゃんは」

サチが拗ねた仕草でぽつりと口にした。

「こんな時、あたしばっかり慌てちゃって、カッコ悪いよ」

……。

一瞬、言葉が出なかった。まったく、何にも気付かないんだから、この人は。俺がどんな気分で暴走しそうな理性にブレーキをかけているかなんて、わかんないのかな。我を忘れて目茶苦茶にしちゃいそうで怖いんだよ。だってさ、サッちゃん言ってたでしょ? あの、ディズニーランドの夜。

“キスしたの、久しぶり。最近御無沙汰でした”

そんな君に我を忘れて狼になったりしたらさ、怯えちゃうんじゃないかって。ま、俺だって結構久しぶりなんだぜ。サッちゃんに出会ってから、遊びでも他の女を抱く気になんてなれなくてさ。

だけどさ、俺だって男なんだよ? 惚れた女の肌に触れたら、それなりに欲望に反応しちゃうんだよね。だから必死に頭の隅で真っ白にならないように、冷静を装っているんだ。グラスの中身をこぼさない程度に、理性を保つようにってさ。

まだ追いかけてくるイルカをサチは指差しながら、再び船から身を乗り出している。今さっき拗ねた眼差しで、俺の平静さに石を投げ込んだ事など忘れちまったかのように。

アダムが再びグラスを満たしてくれる。琥珀色の陽差しが溶け込んだ液体が、乾いた喉を潤していく。幸福の媚薬が仕込まれたような心地よさに酔いしれる。

二人の為にもう少しだけドーニを走らせよう。イルカが飽きるまで、追いかけっこを続けるのも悪くない。

とろり。

身体の上をまんべんなく香油が塗り込まれていく。カップルのどちらかがスパを使うとしたら、普通は女の方だよな。夕食の後、岡部お約束のスパとやらに出向いた。サッちゃんも一緒にやろうよと誘うと、部屋でゆっくりお風呂に入るからとお断りされちまった。

手慣れた仕草でスタッフが背中をマッサージしてくる。香油の乗った皮膚を、滑るように絶妙な加減で揉みほぐしていく。すっげぇ、気持ちいいんですけど……うっかりしていたら、ヨダレが垂れちまいそうだぜ。飛行機に長時間揺られながらも、興奮しすぎて眠らないままだった。それでこんなマッサージなんかされちまった日には、堕ちる……堕ちるよ。そうして、いつの間にか眠ってしまったようだ。途中、一度仰向けになってくれと、声をかけられたおぼろげな記憶があるだけ。

全てが終わり、そっと遠慮がちに揺り起こされる。知らぬ間にだいぶ深い眠りに落ちていたのだと、ぼんやりとした頭で感じていた。

満天の星空を眺めながらコテージに向かう。月がかすむ程に光を放つ溢れんばかりの星々。すげえ、サチを夜の散歩にでも誘ってみようか。ちょっとばかり下心がないわけでもない。記念すべき夜にふさわしく、完璧過ぎるほどにロマンティクな舞台だ。昼間、重ねた唇の感触が脳裏をよぎる。

期待したって、いいんじゃない?

スパのマッサージで身も心も軽やかになったみたいだ。ステップを踏みながら砂浜を横切る。なんかさ、家に奥さんが待ってるって感じ。今日初めて足を踏み入れた小さなコテージが、すっかり我が家の気分だ。そこで俺を迎え入れてくれる女がサチだなんて。

そっと、コテージの扉を開き、足を忍ばせて入り込む。背後から忍び寄り、驚かせちゃおうかな、なんてさ。

だけど……淡い照明の中、すやすやとベッドに眠るサチがいた。手には、本が握られたままだ。表紙を覗くと、初級トラベル英会話と書かれている。

“ああいう女を天然って言うんだな”

岡部の言葉が再び頭をよぎる。

……天然なんてもんじゃないっすよ。

な、岡部ちゃん、アンタには無理でしょ? 悪いけど、こんなサッちゃんに付き合えるのは、やっぱり俺しかいないんだよね。そっと本を取り上げて、テーブルの上に乗せ、サチの隣に滑り込む。深い眠りに落ちているのだろう、瞼が開く気配はない。

そっとサチの首と枕の隙間に腕を差し入れてみる。彼女の長い髪が、俺の皮膚を優しくくすぐる感触。息がかかる距離で、じっと寝顔を観察してみた。

髪、伸びたね、サッちゃん。
今度、俺が三つ網にしてあげる。
明日は何して遊ぼうか?

スケジュールを練っている自分に気付き、苦笑いをする。こんな所まで来て、職業病だな。

スケジュールなんて必要ないんだ。風が吹くまま、気が向くままにのんびりと過ごせばいい。そう、ただそれだけ。朝食を食べる場所さえ、目覚めてから自由に決めることが出来るのだから。

おはようのキスを交わしながらベッドの上で相談しよう。

葉擦れの音が響くベランダ。
朝日を弾く真珠色の砂浜。
揺り籠のように揺れるマイドーニのデッキ。

お好みの場所にテーブルは用意される。

おでこにひとつ、お休みの口付けを落とす。サチは、こそばゆそうに眉毛をひそめてみせた。腕に掛かるサチの重みが、ただ愛しい。なんて長い一日。

ベッドに沈み込む心地のよい倦怠感に誘われ、ゆっくりと瞼を閉じた。映画のエンディングが幕を下ろすように、サチの寝顔が視界から消えていく。夢でも君に会えるといいな。

名残惜しむ思いを噛み締めながら、楽園の一日に別れを告げた。

 

 

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6室のみのセレブな夢の楽園は現在はリニューアルされてサファリアイランドという80室くらいあるリゾートへ変わったそうです。6室…行ってみたかった。

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