サッちゃんのキスは、あまりの不意打ちで……最初、何が起きたのか理解できなかった。
ぽかんと頭が真っ白な俺に、彼女は再び口付けを落してきた。柔らかい唇が、繰り返し俺をついばんでいく。
夢じゃないのか?
そういえば今朝も、何かが触れる感触に目が覚めたんだ。サチにキスをされる夢を見ていたような錯覚のまま、ぼんやりと目覚めたら、腕の中に彼女がいた。あまりの幸福感にくらくら眩暈がしたほどだ。だから、朝食のテーブルで押し付けられた唇は、現実なのか……そんな事すら曖昧に感じた。
こんな風に俺を見詰めてくれる日を夢みていた。繰り返されたキスの後、そっと彼女の腕に抱き締められて、覚えているはずもない子供の頃の記憶が蘇ってくる。
道を見失い、途方に暮れてた時に差し出された手の温もり。そんな安堵感に包まれる。
浜辺の散歩。
シュノーケルでの光景。
ドーニで笑い合いながら食べる、二人きりのランチ。
夢心地のまま、時間があっという間に過ぎていく。
今日もスパに誘ったけれど、サチは部屋にいると首を横に振った。エステとか嫌いなのかな? 頑なに拒む彼女を不思議に思う、あんなに気持ちいいのに。
だから独り、スパは夕方に済ませてきた。夕食後に行っていると、サッちゃん、また眠っちゃうといけないからさ。
今夜は、きっともう俺、我慢できないよ。だって、そうでしょ? あんなキスをされて、潤んだ瞳で見つめられたんだ。
本当はあの瞬間にコテージにさらってしまいたかった。だけど、堪えたんだ。初めて彼女を抱くのが、あそこまで明るい朝日の中っていうのも気恥ずかしくてさ。それに、俺すごい動揺していて、ベッドに連れて行ったら、我を忘れてめちゃくちゃにしちゃいそうで怖かった。
だけど、何もかもを暗闇に覆い隠す夜が訪れた。
レストランでの夕食の帰り道、サチと見上げた空が黒い雲に覆われて、星さえも遮ってしまっているのは残念だった。けれど、欲情している自分を少しでも隠せるようで、安堵の溜息をついたのも事実だ。
ガツガツすんなよ、いい年してさ。
気持ちばっかり焦って、余裕がないっていうの? これじゃあ、女を覚えたての思春期の青少年じゃないか。
違うんだ、快楽を求めている訳じゃない。サチを抱きたいって欲望は、そんな浅はかなモンじゃないんだよね。
この腕にすっぽりと、彼女の全てを抱き締めて閉じ込めてしまいたい。誰にもさらわれないよう、俺の烙印を体中に刻み込みたい。今、手の平に触れるサチの温もりを、もっと全身で感じてみたい。
コテージに戻ると、部屋の灯りが淡く落とされていた。ベッドには島の花びらが散らされている。粋な楽園の演出に、気分は盛り上がっていく。
「サッちゃん……」
我慢の限界。堪らなく、唇を押し付ける。
その先を期待する、貪るような口付け。そのままベッドに押し倒すと、シーツを飾りたてていた花びらが宙を舞った。サチが動揺して、身体を固くするのがわかる。だけど、止めることなんて出来そうにない。髪に鼻先を押し当てると、彼女らしい石鹸の匂いがした。
サッちゃん。
サッちゃん……。
懇願するように耳元で繰り返しその名を囁く。そして、自分でも分かる程に熱くなった唇を首筋に押し付けた時だった。
「……やっ」
びくりと身体を跳ね上げて、サチがするりと腕をすり抜けていった。
まさか、恥ずかしがられても拒絶されるとまでは予期してなかった俺は、言葉さえ失ってしまった。
え……どうして? サッちゃん。
どうして?
サチは動揺を滲ませた瞳で、俺を見つめている。やらかしてしまったとっさの行動を、自分自身信じられない、そんな眼差しだ。
俺は深く息を吸った。何、サカってんだよ。ガキじゃあるまいし。ほら、サッちゃん驚かせちまったじゃねぇか。落ち着け、落ち着くんだ。
「……何か飲む? サッちゃん。何だか今夜は少し蒸すね」
気を取り直して、出来るだけ優しく話しかけてみる。夜は長いんだ。焦らないで気長にいけばいい。サチがほっとした表情を見せた。息殺して様子を伺う青ざめた顔に、少しだけ息が吹き込まれたようだ。
「あ、そうだヒロがね……」
ぴくり。
その名前に俺の神経が、過剰に反応する。聞こえないふりをして、ベッドから足をおろす。ぺたぺたと床を踏みしめ、ストッカーからミネラルウォーターを取り出した。
「ユウちゃんに直接渡したら、面倒臭がって持っていかないだろうって、お気に入りの宇治茶預かってるの。粉末だからお水にも溶けるよ、飲む?」
返事をしなくちゃと思いながらも、振り返る事が出来ない。サチは気まずい雰囲気を誤魔化すように話を続けた。
「……それでね、ヒロが……」
あぁ、もう勘弁してくれよ。
「ホントにウザイ奴だよな」
沸き上がるどす黒い感情を押し殺しているせいか、自分の声色が冷淡でそっけないものに変わる。
「子供じゃあるまいし、アイツのお節介にはうんざりなんだよね」
ゆっくりと振り向くと、サチがベッドの上で茫然とこちらを見ていた。ほどけた髪に、花びらが絡んでいる。
ねぇ、どうして今、岡部の名を口にするの? こんな夜に、アイツが入り込む隙間があるなんて。
「ユウちゃん、どうしてヒロの事、そんな風に言うの?」
……だからもう止めてくれって。言葉に詰まり、沈黙で応える。
「いつだってヒロはユウちゃんを一番に思っているのに、そんな言い方……ひどいと思う」
岡部を庇う口調に、心が逆撫でされる。
「アイツが俺を大事なのは、商売道具だからだよ。落ちぶれたらポイさ」
吐き捨てるよう口にして、すぐにヤバイ言い過ぎたと後悔した。
どくんっ。
サチの眼差しが……見たことがある。そうだ杏里に向けていた怒りを孕んだ視線。
「……嫌い」
「えっ」
「ユウちゃんなんて嫌いっ」
サァっと血の気が引く感覚が全身を駆け巡る。
サチは黙り込んだままベッドを降りると、つかつかとドアに向かった。
「今日はもう、一緒にいたくないから、ついて来ないで」
金縛りにあったように身動きが出来ない。
言葉もなく、ドアを出ていくサチの背中をただ見送っていた。
“ついてこないで”
追いかけたかった。
だけど、これ以上サチに嫌われたらと思うと、咄嗟に一歩踏み出すことが出来なかった。
呆れられて当然だ。
成田の出発ロビーで、俺を送り出した岡部の姿が頭をよぎる。
サチは知っている。
奴が自分を押し殺して、こんなバカンスすら差し出せる男だってことを。
ちっちぇ自分の器を、情けなく思う。
頭を冷やそうと、裏庭のシャワーを水のままザブザブと浴びた。この場所で小さな虹にはしゃぐサチを見たのは、つい昨日のことなのに。
シャツを羽織ると、俺はサチを探しに部屋を飛び出した。彼女を見失ったまま、夜を過ごすなんて、やはり耐えられそうにない。
ベッドの上でサチは気付いたのかもしれない。自分の本当の気持ちに。俺の手をすり抜けていったのは、身体ではなく、心だったのかも。それが真実なら、受け止めるしかないんだ。
ビーチをとぼとぼと歩き回り、バーを覗いてみた。バーテンが俺の姿を認めると、慌てた様子で寄ってくる。今すぐアダムを呼ぶから、一杯飲んで待っていろとグラスを差し出してきた。
アダムはすぐに現れた。ちょっとだけ困ったように肩をすくませて、俺の隣に腰をおろした。さっき、サチに呼ばれたのだとアダムは切り出した。えっ、サチが? 話の行く先が見えず、不安を抱えながら話に耳を傾ける。
奴はすっと小さな紙切れを差し出してきた。よく見るとそれは紙ナプキンに書かれたイラストだった。サチが書いたのだとアダムは言った。描かれているのは小さなコテージと、船らしきもの。コテージの脇には俺の顔、船の脇にはサチの顔が特徴を捉えて添えられている。この島で別居を申し出たカップルは初めてだと、アダムは頭を抱えてみせた。
別居……。
言葉で伝えきれないから、この絵で説明をしたのだろう。こんな状況だというのに、描かれているサチのイラストの髪型が三つ網なのに気付いちまった。サッちゃん、三つ網は気に入ってくれたんだな。
アダムはサチと話をした状況を説明しだした。最初はすごい勢いで書くものを貸してくれと言って、黙々とこの絵を書き上げると、紙を差し出してきたのだと。サチとは言葉でコミュニケーションを取れないから、アダムも説得する事が出来なかったらしい。
だけど……。
仕方がないから言われるままに桟橋につけたドーニに送っていくと、泣きそうな顔で彼女はお休みと言ったそうだ。
夜はドーニにスタッフは誰もいない。きっと、迎えに来るのを待っているから、今からドーニに行くべきだと、アダムは俺の肩をポンポンと叩いた。そして、こんなアドバイスを口にした。奥さんと喧嘩すると、謝るのはいつも僕だよと。
俺の事をサチが待ってるかなんて、蜘蛛の糸のようにか細い希望だ。だけど、暗い海の上でサチを独り眠らせるなんて出来ない。もしどうしても、一緒にいるのが嫌ならば、俺がドーニに眠ろう。
送ると申し出たアダムに礼を言うと、独りビーチに向かう。スコールが来るといっていたアダムの言葉通り、空は今にも雨粒を落としそうな雲行きだ。
帆をたたんだゲストのドーニが桟橋に連なっている。その中でひとつ、小さく灯りのついたマイドーニを探し出すと、俺は静かにロープを引き寄せ船に飛び移った。
どんな顔でサチの前に立てばいい? 迷いは晴れないまま、キャビンの扉に手を掛ける。
三角屋根の室内。キッチン脇のソファーにサチの姿はなかった。ベッドの上にも見当たらない。
「……サッちゃん?」
小さくその名を呼んでみる。
うずくまった影が、ベッドの隣で動いた。サチだった。ベッドを背もたれにし、膝小僧を抱えて床にちょこんと座っている。相当驚かせてしまったようだ。こちらを見たまま固まっている。
「床になんて座ってたら、腰が冷えちゃうよ」
岡部ばりの世話焼き婆さんみたいな台詞を口にしながら、傍に歩み寄る。サチの手を取り、ベッドに座らせた。
「さっきはごめんね。一緒にいるのが嫌だったら、俺がドーニに泊まるから、サッちゃんがコテージを使ってよ」
足元に跪いている俺に視線を落とすと、彼女は首をふるふると振った。何度も何度も首を横に振る頬っぺたに、ぽろぽろと涙が伝うのが見えた。サチのいつものビー球の瞳が、哀しみに滲んで曇っている。
胸がえぐられるような気がした。どうしてこんな事になっちまったんだ?
「……ユウ……ちゃん」
しゃくりあげながら名前を呼ばれ、罪人のような気分でサチを見上げる。
「あたし、隠していたことが……あるの」
どくんっ。
その先の言葉を聞くのが怖かった。本当の気持ちを耳にしてしまったら、どうなっちまうんだろう。
黙り込んだまま俺は、恐る恐る次の言葉を待った。耳を塞いでどうする? 逃げ回っている訳にはいかないのだから。
「ごめんね」
どくんっ。
サチのそのひと言に胸が跳ね上がる。
“ごめんね”
あのテラスで途方に暮れていた岡部と今の自分がダブって……。
「あたしね、おかしいの」
続いた言葉は意外なものだった。
「きっと異常体質なんだと思う」
「は?」
涙はおさまったものの、頬っぺを濡らしたまま目を赤くしているサチに向かって、俺は相当に間抜けな声を出してしまった。
「こんな自分を隠す為に、ヒロの話で誤魔化そうとしたりして……逆ギレしてごめんなさい。スパもやらかしちゃったらと思うと一緒に行けなくって」
逆ギレ? やらかす?
「サッちゃん、あの、よく話が見えないんだけど……」
そう問いただすと、サチの顔が見る見る間に赤く染まっていった。
南国の陽射しを浴びても、意外にも白さを崩さないサチの肌が、手にとるように桜色に染まっていく。
「あたし、過剰なほどにくすぐり体質なの」
「へ?」
「首なんかキスされると、笑っちゃう程にくすぐったいの……色気も何もあったモンじゃないでしょう?」
呆れられるのが怖くて。
消えそうな声で、サチはそうポツリと呟いた。
“ああいう女を天然って言うんだな”
いや、岡部ちゃん、本当、そんなレベルじゃないっすよ。
やっぱり、ここまですごい女、俺じゃなきゃお取り扱いできませんって。
気が抜けた笑いを噛み殺し、サチの頬っぺたに手を伸ばす。そっと引き寄せて、瞳の端に残った涙を唇で吸ってあげる。サチがコチコチに身体を強ばらせている感触が伝わってくる。愛しいと思う反面、これだけ振り回された仕返しに、意地悪をしてやりたい気分だ。
ちゅっ。
わざと音を立てて、おでこにひとつキスを落し、ベッドに押し倒す。
もう、何処にも行かせないよ。
身動きが取れないように、両手を捕らえ、鼻先が触れる距離でサチを見おろした。
「笑っててもいいよ。俺、全然気にしないから」
「だって、本当に吹き出しちゃうんだから……きっとムード台無しだよ?」
「うん、いいよ」
サチが困ったような、拗ねたような眼差しを投げてよこす。そんな顔、誘っているのかと勘違いしちまう。
“色気も何もあったモンじゃないでしょう?”
いいじゃん。わざとらしい喘ぎ声なんかより、ずっとそそるよ。
……サチらしくてさ。
降り始めたスコールが、小さなキャビンの屋根を叩き始める。
悪戯に押し当てる俺の唇に、サチは本当に小さく笑い始めた。
クスクス。
雨粒が弾ける音に、その声が溶け込む様を、目を閉じて味わう。
……。
いつしか押し殺したようにサチは黙り込み、雨垂れの響きだけが空気を包み込んでいく。サチの指がおずおずと背中を歩く。
ゆっくり、ゆっくりと。
通り過ぎていった女達との情事の数々、何もかも知り尽くしたつもりでいた。
だけど、こんなにも違うなんて。愛する女の温もりを分け与えられるひととき。この一瞬の為に生まれてきた、そんな錯覚は陳腐だろうか。満たされるってこういう事なのかな。
ベッドをそよぐ風は、甘い溜め息。
シーツの波間に揺れるサチの長い髪。
揺りかごの海に抱かれ、楽園の夜が更けていく。
囁くようにサチの耳に唇を寄せて、愛しているなんて呟いてみた。
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