夕方の山手線は、ラッシュでごったがえしている。南の島で過ごした時間は、人の流れに乗るという感覚すら鈍らせてしまったようだ。電車のドアからどっと乗客が溢れ出る。歩調が合わず、モタモタとしていたら、じろりとサラリーマンのおじさんに睨まれてしまった。壁際に避難して人の波がおまるのを待とう。だけど、途切れる事なく次の電車が滑り込んでくる。
ふぅっと小さな溜め息をついた。南国ののんびりさが染みついた体で、新宿でナオとご飯だなんて無謀だったのかも。もともとぼんやりした性格が輪をかけてひどくなった気がする。今日だって、午前中から仕事の打ち合わせ、そのまま新宿へと一日外出しているのだというのに、携帯電話を忘れてしまった。しかも打ち合わせに必要な原稿を忘れている事に気付き、駅から一度家に戻ったにもかかわらず、携帯は机の上に置きっぱなしのまま。
あたし、ボケボケと何やっているんだろう。人がごった返す新宿での待ち合わせだというのに、上手く会えない時、連絡が取れないではないか。
改札口に向かって流れていく人の列を、不思議な気持ちで眺める。ほんの数日前、目の前を横切る群れは艶やかな鱗をまとった魚だけだったというのに。
壁にもたれていると、通りすがりの女の子がチラリとこちらに視線を流して、聞きなれた名を口にした。
「ユウタっ」
どくんっ
並んで歩いていた子まであたしの方を覗きこんでくる。
「わぁ、ホントだ。ねぇ写真とっちゃおうよ」
どくんっ
え、なに? ユウちゃん……どこっ?
「あ、すいませ〜ん。ちょっといいですかぁ?」
キョトン。
急に話かけられて一瞬頭が真っ白になった。
あたし?
その子は困った顔で、拝むように立てた手のひらを横に振ってみせた。
しっしっ
そんな仕草。
意味がわからず、見つめ返すと、参ったなという眼差しを投げてよこした。
「あのぅ、後ろのポスター撮りたいんですけどぉ」
「へっ」
慌てて背中にもたれていた壁を振り向いてみる。
「ゆっゆっ…」
ユウちゃん。
喉元まで出掛かった名前をゴクリと飲み込む。あたしの慌てぶりに、彼女は怪訝な顔を向けてきた。はっと、慌てて飛ぶように横にずれる。
カシャッ
ホームを通り過ぎる人から、あからさまに迷惑そうな顔を向けられても、彼女達は気にも止めない様子だ。きゃっきゃと嬉しそうにスマホのカメラを向けている。
「あっ! あっちにもいっぱいあるよ」
走っていく姿を、目を追っていくと、ズラリと連なったユウちゃんのポスターがあった。コマ送りの映像のように、ヘッドフォンをつけてダンスするユウちゃんが並んでいる。
あ、あのコマーシャルのポスターだ。ユウちゃんのバックでは、女性ダンサー達がタイトスカートから綺麗な足を覗かせて悩ましげなポーズを決めている。
緩めたネクタイ、余分に外したボタン。その襟元からはすらりと長い彼の首が覗いている。
初めてあの島で目覚めた朝、引き寄せられた腕の中で見上げた顎のラインが頭をよぎって、カッと顔が火照る。
足早にポスターの前を通り過ぎ、アルタ前の階段を駆け上がる。夕暮れの街に、人々が溢れている。華やかな都会の雑踏。ショーウィンドに映る自分の姿をまじまじと眺める。
二十三歳。身長156センチ。モデルのようなプロポーションでもない。ごくありふれた女。
ふと、見上げたファッションビルの屋上に、ひと際巨大なユウちゃんのボスターがライトアップされて街を見下ろしていた。
人は様々に分類できる。例えばこんな風にも。
愛を受ける人。愛を注ぐ人。
喝采を浴びる人、それを贈る人。
「サチっ久しぶり」
肩をポンッと叩かれる。振り向くと、パンツスーツを身に付けたナオがにこやかに立っていた。わぁ、なんかキャリアウーマンって感じ。格好良くて見とれちゃうよ。
「何かずいぶん日焼けしてない?」
どくんっ
「それにさ……」
眉間に皺を寄せる程、じっと見つめられてドギマギしちゃうよ。
「なぁに?」
誤魔化すようにわざと明るい声をだす。ナオは意味深な笑顔を浮かべると 「ご飯を食べながらゆっくり聞くから」と、あたしの手を引いた。
代々木の方に向かって少し歩く。ナオが連れて行ってくれたのは路地裏の小さなフレンチだった。クリーム色の壁に飾られたアンティーク調の写真が、お洒落な雰囲気をかもし出している。
「最近、忙しそうにしてるなと思ったら急に一週間も音信不通になるんだもの。心配しちゃった。旅行に行くなら教えてくれればいいのに」
「ごめんね」
あたしって、どうしてこう気が回らないんだろう。女の独り暮らし。連絡がとれなかったら心配されて当たり前なのに。
「ま、それはいいとして、彼とハワイでも行ってきたって訳?」
わっ。さすがナオ、鋭い突っ込みだ。
「うん……まぁそんなトコ」
「へぇっ。ホントに?」
ワインリストから顔を上げて、ナオは興味津々と行った眼差しを向けてくる。
「ねぇ、本当は何処に行ったのよ」
「えっと、すごく小さな南の島」
「えぇっ、すっごい一週間も?」
大袈裟なくらい目を丸くしているナオに、小さく頷いて答える。
ふぅん。
へぇ。
そうなんだ。
独り言を呟きながらニヤニヤと意味深な含み笑いをされる。
「ふふん、まるでハネムーンじゃない」
へ?
思いがけない台詞に思考回路が停止する。
「はっねっ……むっ?」
「だってそうじゃない。小さな南の島に二人でバカンスなんてさ」
ハネムーン……。
何を言っているのかと笑い飛ばそうにも、その言葉の衝撃に固まってしまった。
「そろそろ、会わせて貰おうかしらね。アンタをそんな風に変えちゃった彼氏に」
「え? あたし何にも変わってなんていないけど…」
「やぁねぇ、自分じゃ気付かないものなのかしらね」
ナオは苦笑いしながらワインリストを閉じた。
「サチってば、すごく綺麗になった」
「は?」
「女っぽくなったって言うか」
「へ?」
「さっき、外で待ち合わせしていた時、ずっと何を見ているのかぼんやりと空を見上げていたでしょう?あたし、近づくほどにドキッとしちゃったよ。何て言うのかな、サチの周りだけ空気が違うっていうか、色っぽいなぁって思っちゃった」
「えっ、そんなによいしょされてもあたし今日、五千円しか持ってないよ、ご馳走できないから」
「せっかく人が褒めているっていうのに素直じゃないね」
「だって、女っぽくなったなんてさぁ」
「恋の威力は偉大って事だわね」
恋……。
あの一週間は確かに何かを、いや、何もかもを変えてしまった。
ユウちゃんを自分の一部のように感じる事。ユウちゃんの断片を、取り出しやすい頭の片隅のポケットにそっと忍ばせる事。そんな癖をあたしにつけさせた。時折あたしに覆い被さる彼の記憶は、あの海の香りと共に心をくすぐる。
変わった。
あぁ、そうだこんなにも変わってしまったんだ。
ユウちゃん。
ユウちゃん。
悪戯が過ぎるよ。あたしなんて笑っちゃう程に免疫がないんだから。
“愛してる”
包み込むように抱き締められ、耳元に注ぎ込まれる愛の呪文は、ユウちゃんという檻にあたしを閉じ込めてしまった。切なく甘美で、時折あたしを勘違いさせる。
ずっと
ずっと
離さないで欲しいだなんて。
「……っち、サチっ。ねぇ聞いてる?」
「えっ、あ…ごめん」
「やぁねぇ、ぼんやりしちゃって。近いうちに彼に会わせてねって言ってるの」
「えっ……あ、……うん」
駄目だとは言えなかった。曖昧に笑ってその場をしのぐ。バカンスの相手が桂木ユウタだと告白したら、一体どんな顔をされるのだろう。
飲みに行きたいけど、明日、急な仕事で朝が早いからとぼやくナオとは食事のみで別れた。
夜の八時半。街は益々賑わいを集め、華やかにネオンの衣を纏う。再び人が押し合う電車に揺られる。馴れない薄い空気から気をまぎらわす為、ドアの上部にはめこまれているテレビに視線を泳がせた。
ニュースが文字で流れていた。香港の映画スターが麻薬所持で逮捕されたと繰り返しテロップが報じている。
麻薬……。
人は現実から逃れ、ひと時の快楽に溺れる為にそんなものに手を伸ばすのだろうか。あぁ、でもそれは誰もが心に秘めている欲望なのかもしれない。甘い蜜を知ってしまえば、繰り返し味わいたいものなのだ。
蜜は時に身体を優しく滑る彼の指先だったり、
耳に吹き付けられる愛の囁きだったり、
瞼に焼き付けられた小さな楽園の色彩だったりすることもある。
離れた途端に求めてしまう。
もっと。
もっと。
自分の欲深さに呆れてしまう。馴染みのない感情に足がすくむ。甘美な時間を味わった代償なのだろうか。
灰色がかった都会の空を見上げて、あの抜けるような青色の断片を探してしまう。見慣れた街に感じる違和感。馴染んだシングルベッドで無意識に探してしまう彼の体温。
あたし、どうしちゃったんだろう。
ガチャリと音を立ててアパートのドアをあけると、暗い部屋に点滅している灯りが目に入った。あ、携帯に着信があったんだ。電気をつけて部屋にあがり、テーブルの上に置きっ放しにしていた携帯を手にする。
着信の履歴を覗いて、連なるメッセージの文字に目が点になった。
『着信が13件、メールが1件あります』
ありえない、悪戯電話のオンパレードだろうか。いやよく見ると着信は全てヒロからだった。
どくんっ。
え、どういう事? ユウちゃんに何かあったのかも。跳ね上がる心臓の鼓動に、体中が揺さぶられる錯覚。メールもヒロからだった、短いメッセージ。
“連絡を待つ”
すぐに折り返しの電話をかけようと思うのだが、身体が硬直してただその場に立ち尽くしていた。
ぶるんぶるんっ。
手にした携帯電話が振動を伝えてくる。
ガチャンッ
思わず手を離してしまい、足元にそれは派手な音を立てて落ちていった。着信音がバイブに設定されている携帯は、床の上であたしの足元にくぐもった振動を伝えてくる。かがんで拾い上げる自分の指先が、血の気を失いピリピリと痺れている。
画面に表示された着信の主は、さっきまで一緒にいたナオだった。すがる気持ちで受信の為のボタンを押した。こんなに動揺している自分を救い出して欲しかった。
『ちょっと! ねぇ、見てる?テレビっ』
興奮を押さえきれないひっくり返った声色。予想だにしない台詞。
「テレビ?」
ナオのアパートは中野にある。あたしより先に部屋に帰ったのだろう。
だからって、テレビって…え?意味が全然…
『Nテレビだよ。ユウタっ』
どくんっ
少し落ち着きを取り戻した心臓が、その名に大きく反応する。慌ててリモコンを探す。普段、あまり使わないテレビのリモコンが何処に置いてあるのか、気が動転しているせいもあり途方に暮れる。だから、指で直接テレビのボタンを押した。
カチッツ。
一瞬、画面が白い閃光を発すると、画像と共に賑やかな笑い声が響いてきた。お笑い系というのだろうか、大阪弁のタレントが大きな口をあけて喋っている。
『ちょっと、何見ているのよ違うってばっ』
ナオのキンキンした声が受話器の向こうから響いてくる。
Nテレビって、Nテレビって……。パチパチとチャンネルを変えるのボタンを続けて押す。
あ……。画面いっぱいにユウちゃんのアップが映し出された。インタビューを受けている雰囲気。インタビュアは見た事がある。有名な映画評論家だ。
耳に押し当てた受話器からは、押し殺したナオの息遣いが聞こえた。沈黙の理由は、あたしと同様、テレビの画面に目が釘付けだからなのだろう。
『今日のエンディングを飾る桂木さんのプライベート写真を番組がお願いしたとは聞いていたんですが、私、今初めて目にしました。いや、素晴らしい写真ですね。こんな表情を是非、映画のスクリーンでも見たいものですな』
ユウちゃんの背後には、引き伸ばされ、イーゼルに立てかけられた写真が掲げられていた。ユウちゃんの肩越しに覗く青い色彩。カメラがゆっくりと写真に近づいていく。
え? 嘘。にわかに信じ難い。だけど、こんな状況にも関わらず、写真に映り込んだ海の蒼さに懐かしさが込み上げてしまった。ほんの数日前、ここに居ただなんて嘘みたいだ。
ナオの興奮は最高潮に達しているようだ。震えた声で、あたしに訴えかけてくる。
『サチだよねっ? この写真、ユウタの隣に写っているのサチだよねっ。ねぇ、そうでしょ』
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