天上の楽園(ユウタ)29話●一部完結●

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放送終了後、TV局への反応は時間を増すごとに激しくなっていった。

最初は視聴者から寄せられる、驚きの電話が主だった。だが、数時間後には番組を見逃した人達からの、再放送を求める要望へと変わっていた。

俺の出演自体、急なピンチシッターで、しかも不意打ちの告白。この騒ぎは当然の結果といえばそれまでなのだが。

“ただ、ひとつ条件があるのですが……”

あの時、岡部は型破りな条件とやらを北原プロデューサーに突きつけていたのだ。例の写真自体、公の場に持ち出したのは、もちろん奴の差し金だ。ここまでは局側としても、棚からぼた餅といえる話題性だっただろう。けれども、さすがに切れ者のウチのマネージャーさんは、更なる事態を読んでいたらしい。

再放送のタイミングまで注文済みという事だった。お待ちかねのお披露目は、俺達が香港に飛び立ってから。

ただ、それまでは、他局にはもちろん、自局のワイドショーでもサチの写真に関しては門外不出という制限をかけた。ネットでの動画流出も徹底した監視をするらしい。

これにはちょいとばかり、N局の中で論争を巻き起こしたそうだ。こんなスクープが、手元にありながら放送できないとはどういう事かと。

だが、絶対的な視聴率を約束する再放送は、金を積み上げるスポンサーが選り取りみどりという特典付だ。北原さんのフォローもあって、真夜中のN局会議はとりあえず岡部の条件を全て呑む事を取り決めたらしい。

マンション前は報道人が詰め掛けて、すごい騒ぎになっているらしく、俺と岡部は都内のホテルに忍び込んだ。このホテルは芸能人の取り扱いを心得ており、裏口から誰の目に触れることなく客室に案内される。

サチは北原さんの提案で、彼の自宅に避難しているらしい。

最初それを聞かされた時には、何言っていやがると岡部に掴み掛かるところだった。だが、北原さんが個人的にサチと親しく、放送の事柄にしても全てを把握しているという事。用心の為、外出もままならないサチの面倒を、北原さんの奥さんが快く承知してくれたのだという経緯。

そんな状況を踏まえると、意外とナイスなアイディアなのかもしれないと思い直した。マスコミが想像出来ない隠れ家である事は確かなようだと。

だけど、変わったおっさんだよね。サチを隠しているのがばれたら、立場上、自分自身がやばくないのか?

それにしても、サッちゃん、驚いただろうな。

ホテルのベッドに腰を降ろし、時計に目をやると、既に夜中の二時を回っていた。携帯電話を手に取り、短いメールをゆっくりと書き込む。

『迷惑掛けてごめんね。ゆっくり会えるよう時間を作るから』

サチは芸能人じゃないんだ。この騒ぎに目を丸くしていることだろう。

だけど、カメラを前に、心の内を全て語った開放感は忘れられないものだった。

どんな状況になっても彼女を守る盾になろう。たとえ失うものがあったとしても、サチと引き換えならば後悔などないのだから。

そう自分に繰り返し、メールの送信ボタンを押した。

「サチを香港に連れて行く」

翌日の夕方、突然そう言い出したのは岡部だった。

俺は今日一日ホテルにカンズメだった。何処に顔を出しても騒ぎを大きくするだけだと、岡部がスケジュールを全てキャンセルしたのだ。

一人、だだっ広いスイートルームで、台本と睨めっこをして時間を潰していたのだが、昨夜の寝不足のせいか気が付いたらソファーで眠りこけていた。

岡部に揺り起こされるまでどれくらい眠っていたんだろう。がばっと飛び起き、やばい、サチに電話をしようと思っていたのにと焦っちまった。

「撮影であちこちロケに行くから、お前とはほとんど一緒にいられないだろうけどな。今、向こうでの滞在場所を再検討しているところだ」

おっと、神妙な顔をしようにも口元がだらしなくほころんでしまう。サッちゃんと一緒だなんて。

「出発日をニ日程、早める事にした。お前と俺は明日、午後の便で。サチは夜の便でずらして来て貰う」

ルームサービスで注文したコーヒーを啜りながら、岡部は話を続けた。

「今朝、北原さんの自宅にお邪魔したんだ。サチに会って了解を貰った。この騒ぎの中、ひとり日本に置いていく訳にもいかないだろう」

「へ? いつの間にサッちゃんに会っていたんだよ。俺も連れてってくれればいいのによ」

「香港に行ったら、撮影に入るまでは二人で居られるから文句を言うな。あぁ、昨夜のインタビュー見ていたらしいぞ。熱烈なラブコールがちゃんとサチに届いて良かったな」

「マジで? 見てたのっサッちゃん」

「どうやらサチの友達があの写真に気が付いて、番組の途中で電話をかけてきたらしい」

思いもかけない展開。今度、サッちゃんに会ったら俺きっと照れちまう。

「……何か言ってた?  サッちゃん」

「ま、何て言ってもサチだからな。サル顔で大口開けて笑ってる写真じゃなくてもいいのにって、拗ねていたぞ」

へ?  サル顔って。

「サッちゃんらしく、可愛く撮れてたけどなぁ。それより、怒っていなかった? あんな風に公表しちゃったこと」

「それは気にしていないみたいだ。サチは何よりその親友の子にずっと黙っていた事に気を揉んでいたらしい。だから、その子に会って、俺から詫びを入れておいた」

あ……。

ほら、まただ。彼女に面倒かけちまっている。サチくらいの年代の子なら、話題は彼氏の話だろう。俺のせいできっと何も話せずに肩身の狭い思いをさせていたに違いない。前にディズニーランドで友達に頼まれたってサインをねだってきたっけ。岡部が会ったのって、その子かな?

ごめんね、サッちゃん。

ずっと、俺の都合で振り回してばかりだ。もう、誰にも嘘なんて言わなくていい。あの島で過ごした時のように、手を繋いで外を歩き回ろう。

だけどまだ、片をつけなきゃいけないことがある。カメラを手に追い掛け回してくるマスコミに、もう一本釘を刺さなきゃこの騒ぎはいつまでも続くのだから。

俺の手で、いつかこの紅色を君の唇にのせてあげよう。笑った時、拗ねた時に、可愛らしく動くその形を眺めたい。あぁ、でも俺何もつけていないサチの唇が一番好きだ。だったら、紅色に染まった君の唇に繰り返し口づけて、俺がみんな剥いであげる。きっと、子供の頃食べた林檎飴みたいに、舌が真っ赤になるんだろうな。

やばい、似合いすぎる。

鏡の中の女は、真っ赤な唇を引きつらせて嘘笑いをしている。

二度目の女装ともなると手馴れたもんだ。南国で焼けた肌とブルーアイズは、多民族を背景にした異国情緒を、よりリアルに際立たせている。

俺は、この前とは違う秋物のパンツスーツを選び袖を通した。ウールの混じったストレッチのブーツカットパンツは、やはり男物とはどこかラインが違う。シックな紺色の襟元から覗かせる深いパープル系のインナーは艶やかに映えている。

ベランダから見渡す三浦海岸に人影はない。日が暮れる。そろそろ岡部ちゃん、ご帰宅かな。

今日も仕事の後片付けにと、一人岡部はホテルを出ていった。入れ違いで事務所のスタッフが、俺をこの三浦の別荘に送ってくれた。夜中、サチはタクシーでここに来る予定だ。

久しぶりに一晩一緒に過ごし、時間をずらした便でお互い香港へ出発する。

ブルンッ。

窓の外で独特のエンジンが響く。あ、岡部ちゃんだ。俺は笑いを噛み締め玄関に向かった。

「おっかえり〜」

ドアをあけると、眉間に皺を寄せた岡部と目が合う。

「……化粧のノリがいいみたいだな、ユウタ」

呆れた口調。

「じゃ、出掛けるか。マスコミはみんな巻いて来たんだろ」

俺は奴の手を引くと、引きずるように車に連れ込んだ。

「そんな格好で馬鹿を言うな」

「マジですけど俺」

「何処に行こうって言うんだ」

「パーティだよ」

ブルンッ。

深緑のジャガーは俺がアクセルを踏むといい声で鳴いてくれた。岡部はふて腐れたように黙り込んだ。高速を飛ばせば間に合うはずだ。美しい光のパーティ。ディズニーランドに向かって、俺は車を走らせた。

平日だというのに、パークの中は人々で賑わっていた。ありきたりのカップルを演出する為に、岡部の腕に指を絡めて歩く。悪ノリしている自分に笑いが込み上げる。

あぁ、可笑しいったらありゃしねぇ。

甘い匂いに誘われる。出店を覗くと、棒状のドーナッツらしきものに砂糖がたっぷりとまぶされた菓子が積み重ねられている。何だか腹が減っちまった。だから彼氏におねだりしてみる。

「アレ買って」

相変わらず眉間に深い皺を刻みながら、岡部は列の後ろに並んだ。人がいないベンチで待っていろと目配せされ、素直にそこに座って奴の背中を眺める。ちらちらと列に並ぶ女達が岡部を盗み見している。

駄目だよ、そんな目で見ても。こんな男が女を連れていない訳ないでしょ?  ジュースとお菓子を手に岡部が戻ってくる様を目で追う。女の視線が奴の背中に張り付いていやがる。

だからご期待に添うよう笑顔で出迎える。ちょいとばかり甘い毒を含んだ流し目なんかどうだろう。

「……目立ちすぎだお前は」

グイっと腕を掴まれる。足早に奴は歩き始めた。

「もう暗いんだし、堂々としてりゃバレやしねぇって」

前にアンタすら騙せたじゃないか。パクリと砂糖のまぶされた菓子を頬張ると、わざと岡部の口元にそれを運んでやる。

「たいした度胸だな」

やっと奴は薄く笑ってみせた。そうそう、楽しまなきゃ損だぜ岡部ちゃん。

街灯の灯りが落とされる。そろそろ始まるかも。慌てて以前サチが教えてくれた場所へと向かうやっぱりここは穴場なのかな。人影もまばらな垣根の端っこに腰をおろす。

「岡部ちゃんディズニーランド来たことあるの?」

「ある訳ないだろう」

「だよね」

「俺達ってさ、人様が縁のがない経験は場数踏んでいてもさ、意外と普通の事って知らなかったりするよね」

「今日のデートも普通とは言えないだろうが」

まぁな、と空を見上げる。青白い月が、ぽっかりと夜空に浮かんでいた。

「いよいよ明日から香港だな。日本で眺めるお月さんとも、しばらくはお別れだ」

「これからは世界がステージだ。お遊びは通用しないぞ」

「へいへい」

ふざけた口調を返しながらも、真剣な眼差しでこたえてみせる。

「俺の手を離すなよ」

「……おう」

武者震いっていうの?  なんだか岡部の言葉に感動しちまった。感動ついでだ。相棒に大事な告白をしてみる。

「俺、今日サッちゃんにプロポーズしようと思う」

……。

岡部は少し黙り込み、さっきの俺を真似るように、夜空を仰いだ。

「そうか」

それ以上、奴は何も言わなかった。それって反対はしないって事だよね?

つるっと口がすべっちまったけれど、何だかひとつ目の難関をクリアした安堵感。今更にほっと溜息をつく。

「あのさ、岡部ちゃんはさ、今までしたことあるの? プロポーズとか……」

聞き覚えのある賑やかなリズムと共に、遠くから光の渦が近づいてくる。

流れてきた風に前髪を乱され、岡部は髪に手を添えた。その仕草が妙に哀愁を帯びていて、つい視線が釘付けになる。色気があるっていうの?

「……あるさ」

「へ、マジで?」

岡部は滅多にプライベートを匂わせない。だから返された言葉は意外なものだった。

「プロポーズ、したことあるの? っていうかお前まさか知らぬ間に結婚して既に離婚も経験済みだなんて言うんじゃねぇだろうな」

「勝手にバツイチにするな」

「しようと思っただけか?  それとも……」

「口にしてみたけれど、相手はそれがプロポーズだとは気付かなかったみたいだな」

「またまた、ぶっきらぼうな言い方したんだろうよ。愛想ってモンがないからね岡部ちゃんは。で、何て言ったの?  参考までに聞かせてよ」

まるで、初体験を語るクラスメイトの猥談に耳を傾けるノリだ。だってさ、今更経験のない事なんて、この年にもなると滅多にないじゃん。

「俺の手を離すなと言ったんだ」

あれ? 聞き覚えのある台詞。岡部ちゃんの18番なのかな。だけど、女に使うと結構それって……。

「すげぇストレートな口説き文句じゃん、それで気付いてくれないなんて随分と彼女、鈍感なんだな」

「鈍感か、まぁな」

片側だけ口元を上げて、薄く奴は笑ってみせた。

「お前がそこまで入れ込んだ女がいたなんて全然気付かなかった。それってさ、いつ頃の話?」

「つい……」

パレードの先頭が目の前に迫る。賑やかな喧騒に岡部の語尾がかき消された。
ついさっき……そう聞こえたのは気のせいだろうか。

俺は声が拾えるようにと、奴との距離を狭めて話を続けた。

「つい、最近って事?」

「まぁ、そうだ」

ドクンっ。

それってさ、まさかサチの事じゃないよな?  一気に血の気が失せる。

鈍感って言葉は悪いけどさ、それって、それって……。

“ああいう女を天然って言うんだろうな”

サチと重なる。

「どっどんな女?  岡部ちゃんを虜にしちゃうだなんてさ」

出来るだけさらりと、ちょっとばかりおどけて見せたりなんかして探りを入れる。

また一瞬、奴は黙り込んだ。今度はその間が妙に長く感じる。

ブルー。
ピンク。
パープル。
イエロー。

通り過ぎていくキャンディカラーの電飾。サチと初めてキスをした時と何ひとつ変わらない情景。覚悟を決めて俺は岡部を見据えた。もし答えがサチだとしても、目を反らさずに受け止めよう。

「勿体つけないで教えてよ。相棒としては気になるところなんだけど、アンタの趣味」

「青い目の女だ。あの写真の海みたいに、透き通るようなブルーアイズの女だよ」

サブンッ。

その台詞に触発され、揺れるあおいゼリー色の海が脳裏をよぎった。

……サチじゃない。

岡部の答えに肩透かしを食らった気分だ。と、同時に湧き上がる疑念。それって誰だよ。

日本の女じゃないって事だよな。最近って、いつだ? だってコイツってサチに惚れてたんじゃないのか?

俺がモルディブに行っている間に出会いでもあったのか。サチに振られて隙間だらけの心に、すっと入り込んだ女でもいたって訳?

いや、逆かもしれない。ブルーアイズの女を失った隙間に、サチへの想いが積もっていったのかも。

もしかして岡部って意外と惚れやすいタイプなのか?  頭の中は疑問符だらけだ。

「へぇ、さすが岡部ちゃん、インターナショナルなキャパだよな。ブルーアイズっていうのがそそるよね。それで、モデルとか? やっぱり、すげぇいい女なのかよ」

「そうだな」

注がれる眼差しを感じ、パレードに向けていた視線を岡部に向ける。

どくんっ。

何だよ、そんな顔。

ブルー
ピンク
パープル
イエロー

移りゆく色彩が、奴の濡れたような瞳を横切っていく。

「ブルーアイズにショートボブ。お前によく、似ているかもな」

ふっと目の前が暗くなった。大きな影に遮られて、光の渦が暗闇に呑まれる。

えっ……何?

自分の状況が理解できない。塞がれた唇に、思考回路が吸い上げられる。

“お前に良く似ているかもな”

呟くようなさっきの台詞が頭の奥で響いている。背中に添えられた指先が、チリチリと焦げ付くような熱を伝えてくる気がした。何をしていやがると、押しのける事などたやすかった。

だけど……。

ハートブレイクなんだよね、岡部ちゃん。

運命の出会いが立て続けに訪れて、一気に玉砕しちまったのかもしれない。俺だってサチに想いを受け止めてもらえなかったら、泣きべそかいてコイツに寄りかかるかもしれない。キスはしないだろうけどよ。あ、岡部にサチの面影があったら、わかんねぇよなぁ。

それってどんな顔だよ。

突き放す事など出来なかった。普段、スカしている奴だけに、ここまで自分を見失うとは、よっぽど心の傷は深いのかもしれない。不思議と愛しいとさえ感じた。まぁ、減るモンじゃないしさ。俺も、三十前にして人間出来てきたってヤツですか?

だけど、コイツってばキス、上手すぎやしないか。サチの可愛らしい小鳥ちゃんのような口づけとは訳が違う。男のキスって狩猟本能があるっていうのかな……奪われるような感覚。

ぞくりっ。

手馴れていやがる。女のそれとは明らかに違う感覚に堕ちてしまいそうだ。だけど、ふとした疑問に我に返った。おいおい、まさかあの時、サッちゃんにもこんなキスをしたんじゃないだろうな。

むくりと湧き上がる闘争心。だてに芸能界生き延びている訳じゃないんだよね。俺って、実はかなりの負けず嫌いってヤツ。受身だったキスから攻めに方向を転換してやる。

不思議と、男同士だというのに嫌悪感はなかった。

同点ってとこですかね。そう、自覚したところで唇を離す。挑むようにお互い視線を絡め合った。

「色々な役柄に挑戦したいと、市川竜之介にタンカを切っただけはあるな、ユウタ」

「へ?」

「いい心構えだ」

「は?」

「蜘蛛女のキス、ブエノスアイレス、Mバタフライ、ブロークバック・マウンテン、これらの作品の共通点は何だ?」

何だよ急に。だけど、ついついその共通点とやらの答えを探し始めた。

あ、そうか。

「同性愛を描いている」

「そうだ。名作への出演でも、思いもかけない役柄という事もありえる。お前にはこなせそうなだ、こういう題材も」

こいつって。こいつって。

「てめぇ、悪ふざけにもなぁ…」

一発食らわせてやると、みぞうちに拳をめり込ませたつもりが、しっかりと岡部の手の平にそれは遮られた。

「そろそろ帰らないと、お姫様の面会に間に合わないぞ」

悪びれる様子もなく、しゃあしゃあと腕時計を眺めながら岡部は促してくる。やばい。シャワーを浴びて化粧を洗い流さなければ。慌てふためいて家路を急いだ。

どこまでが冗談なのか食えねぇ野郎だ。

シャワーの滴を撒き散らしながら、髪をがしがしと乱暴に泡立てる。

あの時一瞬、苦悩の片鱗を浮かべた岡部の瞳。演技だとしたら、大した役者だぜ。

そう心の中で悪態をつきながらも、何かを垣間見てしまった途惑いが湧き上がる。それは何なのかと問われれば、ぼんやりと曖昧なものなのだが。

“俺の手を離すなよ”

あぁ、離さないさ。その手に導かれる心地良さを、俺は知り尽くしているのだから。

バスルームの小窓に、車のヘッドライトが横切るのが見えた。やべぇ、サッちゃんが来ちまった。髪に差し込んだ指をせわしなく動かす。
あぁ、畜生。なんて言ったらいいんだ。結局、肝心なプロポーズの言葉を決めないままじゃねぇか。慌しく羽織ったバスローブの紐を結ぶ手を休める。

パニクっている場合じゃない。ちゃんと、ちゃんと考えなくては。本当はもっとロマンティックな演出をして、サチへ捧げる指輪なんかも用意して、生涯忘れられない愛の言葉を贈りたい。

日常生活を普通に出来ない程に、サチの人生を巻き込んでしまった。このうえ、一緒に香港へ来て欲しいだなんて。

もう、とっくに心は決まっているのだ。例のインタビュー騒ぎで、それを口にするタイミングが慌しく早まっただけ。結婚すれば興味本位でマスコミに追いかけられる事もない。秘密にすればするほどに奴等は嗅ぎ回るのだから。思いっきり派手な結婚報告会見でもやってしまえば、騒がれるのも最初だけだろう。

いや、そんなんじゃない。そんな理由じゃない。

急ぐのは、俺がもう限界なだけ。人目を気にして会えない時間に押し潰されそうだ。これから、海外の仕事も増えていく事だろう。
子供じゃないんだ。いつも一緒にいなくちゃ嫌だなどと、駄々をこねるつもりはない。ただ、離れていても、帰る場所が同じならば、どんなに満たされた気持ちで生きていけるだろうと。

着がえを済ませ、階段を降りるとリビングにサチと岡部が立っていた。サチが、岡部の顔に手を伸ばしている。

ドクンっ

え、なに? サッちゃん何しているの?

先に俺に視線を向けたのは岡部だった。続いて、サチが振り返った。サチの背後で意味深な目配せを岡部は投げてよこす。何だよ。一体何なんだよ。

二人の親密さに未だ心がざわめく。俺もまだまだ未熟者だよね。

「見て、ユウちゃん。ヒロったら口の端に口紅なんて付けてるのよ」

ほんのりと紅を移した人差し指を、勝利品のように差し出してみせる。見〜つけた。そんな悪戯っ子のような瞳はすでにビー球の輝きを放っている。

口紅、やばいっそれって俺の。確かハンカチで拭き取ったはずなのに。

冷や汗が、一気に噴出す気がした。

「さっさっさっちゃんっ」

「なぁに?  ユウちゃん、そんなに慌てちゃって」

クスクス。可笑しそうにサチは俺を見つめてくる。

「そっそっそれってさぁ……」

誤魔化そうとすればするほどに、泥沼にはまっていく気がした。

「失礼。今夜は久しぶりに羽目を外しすぎたんだ。しばらく東京に帰れないからな。名残惜しんでくれる女の一人や二人いない訳じゃないんでね」

さらりと岡部は言ってのけた。万事休す。さすが岡部ちゃんだね。

サチはほんの一瞬冷やかすような眼差しを奴に向けると、急に黙り込み視線を落とした。

様子が変だ。サチの耳だぶが赤くなっていく。気のせいか、おでこにかかった前髪が小刻みに震えて見える。

「サッちゃん?」

岡部のキスマーク、そんなにショックだったの?

「あのっ」

意を決したように、サチは顔を上げた。

びくっ。

あまりにも、真剣な声色に胸が跳ね上がった。

「やっぱり、ヒロに最初に言わなくちゃと思って。ほら、前にユウちゃんの親代わりみたいなものだって言ってたでしょう?」

は、岡部が俺の親代わり?

歳は二つ、ま、学年は三つ違うけどよ。何の話?

「あのっ」

びくっ。

さっきより大きな声。それに、可愛いおでこに汗が滲んでるよ。

……サッちゃん?

「ゆっユウちゃんを旦那さんにくださいっ」

岡部に向かって、サチは深々と頭を下げた。

ぱさり。

結んでいない髪が、俯いたサチの頬を覆う。その隙間から真っ赤に染まった耳朶がのぞいている。

「あのっ、あたしなんかには勿体無いなんて充分わかっているけど……一生大事にしますっ」

えっえっ?

何言ってるの、サッちゃん。それって。

「断られて当たり前だと思ってます。でも、どっどうしても、言ってみたかっただけっ」

岡部の顔っていったら、きっと俺も同じ顔をしてるに違いない。

鳩に豆鉄砲。沈黙が流れた。あまりの衝撃に時間が止まってしまったかのようだ。

「……バァカ」
小さく岡部はサチの頭を小突いた。

「痛てっ」

潤んだ瞳でサチは顔を上げた。何しやがる。跳び蹴りのひとつでもかましてやりたいところだが、金縛りにあったように体が固まって身動きが出来ない。

「アンタってつくづく……」

笑いを押し殺した岡部の声。深く息をつくと奴は奇妙な事を俺に問い掛けてくる。

「おい、ユウタ。俺がクリスチャンなのを知っているか?」

何を言いたいのか、言葉の出ない俺は、怪訝な眼差しで岡部を見据えた。

「ま、母親が勝手に洗礼をしたのだが、週末のミサも退屈なので五歳で卒業した。ま、えせクリスチャンだ」

サチは真剣な眼差しで岡部の話に耳を傾けている。だけど俺はというと、それどころではない。

だってさ、さっきのアレ……。

アレだよ、アレ。

「たまには子供心をくすぐるショーもあって、それだけは興味深々にいつも眺めていた。何度も何度も牧師の言葉を繰り返し聞いてたから、今でも耳に残っている……」

おもむろに岡部は、正面から真っ直ぐに俺を見据えてきた。射抜くような眼差し。そのただならぬ雰囲気に狼狽し、俺は知らぬ間に小さく拳を握っていた。

「汝は、この女サチを妻とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻を想い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓うか?」

静かな低い声色は、凛とした響きを持って俺の鼓膜を揺らした。こんな台詞を突然、流暢に口にするとは、本当に大した男だと感心する。

だけどその言葉のイメージはといえば、どっかの安っぽいドラマのワンシーン。そう思いながらも、改めて岡部が口にした誓いを噛み締める。

だって、サチを目の前にしてその言葉は、二人で眺めた南国のスコールのように音を立てて降り注ぎ、切ないほどに心を揺さぶるのだから。

「誓います」

一点の迷いもなく俺は答えた。岡部は頷いた。納得したように、二、三度小さく。そして、サチに視線を向けると、再び誓いの言葉を繰り返す。

「汝は、この男ユウタを夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓うか?」

サチは瞼を閉じていた。一片の欠片も取り溢さないようにと、じっと耳を澄ませている。岡部の台詞が終ると、柔らかなカーブを描くサチの睫毛が、ゆっくりと開くのが見えた。

花が開くように、澄んだ瞳がそこにあった。俺の心を虜にしたビー球の眼差し。

「はい。誓います」

サチは照れ臭そうにはにかんだ。幸せを噛み締めた笑顔に、胸が摘み上げられる。きっと、時間にしたらほんの数分の出来事。だけど、この瞬間を境に今までとは異なる人生の歯車が回り出すのを感じた。

岡部の奴、いいトコみんな持っていきやがって。この男のプロポーズを聞き流しちまう女の顔が見てみたい。きっとサチ並の天然。

「誓いのキスは俺が退散したあとゆっくりとやってくれ。あ、キスはもう沢山か、ユウタ」

どくんっ。

何言ってやがる。地雷を撒き散らすんじゃねぇ。

「今日、ラブシーンの撮影でもあったの?」

サチがからかう口調で俺を覗き込んでくる。

「ちっ、ちがっ」

答えに詰まる。こんな時にチャチいれやがって、野郎、本当いい性格をしてるぜ。

「明日、昼前に迎えに来る」

そっけなく岡部は背を向けた。

「ヒロっ……」

ドアを開く奴の背に、サチは慌てたように走り寄る。

「ありがとう」

サチの言葉に、一瞬間を置いて岡部は振り返った。いつもの片側だけ口端をあげた皮肉っぽい笑み。

「Congratulations(おめでとう)」

さらりと言ってのけると、岡部はドアの向こうに消えていった。ったく、気障な台詞びしっと決めてくれちゃって。奴と最後に一瞬からんだ視線。気恥ずかしくって、目を反らしちまった。

遠のいていくジャガーのエンジン音を、静まり返った部屋の中でサチと聞いていた。千両役者は去ったんだ。これからは俺の一人舞台。少し挽回しなくちゃさ、格好つかないよね。

「ユウちゃん」

サチが俺に呼びかける。

なぁに?  と、最高の笑顔を作ろうと思ったら。

ちゅっ。

爪先立ちをしたサチに口づけを落とされた。

「さっさっさっちゃんっ」

また、いい役どころを奪われる。しかも不意打ちの奇襲に情けない声を出しちまった。

「消・毒」

ちょっとだけ拗ねた顔で、俺の唇を指差しながら、サチはおどけてみせた。

そんな仕草がたまらなく愛しくて……サチの後ろ髪をすくうようにかき上げながら、唇を押し付ける。

せめて一生忘れられない誓いの口づけを君に。初めてキスを交わした時のように、おでこをくっつけたまま唇を離す。ほんの一瞬でも離れ難くて。

「ねぇ、ユウちゃん目を閉じて」

至近距離で見詰め合うのが気恥ずかしいのか、サチがそんな事を言ってくる。

素直にそっと瞼を閉じてみた。

「何が浮かんでくる?」

何って、あれからいつだって、不意打ちのように瞼の裏を覆うのは……。

「ユウちゃん、また連れてってね」

あ、同じことを考えていた。不思議と、意外だとは思わなかった。そう、瞼の裏に浮かんだ情景は、あの海の透き通るようなBLUE。

サッちゃん。

ねぇ、サッちゃん。

永遠という名のもとに、君と繰り返し訪れよう。

小さな天上の楽園へ。

溜息が出るような幸せの予感。

サチのおでこの温度を感じながら、盗み見をしていた瞼を再びそっと閉じてみた。

(END)

 

 

あ と が き

長いお話読んでいただき本当にありがとうございました。
読んでくださる読者様がいる。
それだけが書き続けられた原動力だと思います。
感想などいただけましたらこれからの参考にいたします。
ハッピーエンドのその後の続きもこれからご用意いたします。どうぞお楽しみにしてください。


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