「あの、いいんですか? 彼女に怒られちゃいません?」
濡れた服の着がえにと、納戸部屋のクローゼットを開くとサチが思いもしない台詞を口にした。あぁ、こんな女物の服が揃っていればそんな勘違いをされるかもな。
「この別荘、知り合いから譲って貰ったんだけど、奥さんがファッションデザイナーをしていてさ、多分これ、サンプル品とかだと思うんだよね。いらなかったら捨ててくれって置いていったものなんだ」
「そうなんですか? あ、ウイッグや靴まである」
海外のモデル仕様なのか、どれもサイズが大きめな気がする。
サチは小柄だな。服を選んでいると視線は彼女のプロポーションをなぞっていた。結い上げた髪のおくれ毛が、ぱらぱらと華奢な肩に落ちている。
じゃあ、これ。と、サチが選んだのは、ターコイズ色のTシャツだった。
これって新品じゃないよな? もしかして奥さんの私物じゃねぇの? おしどり夫婦と名高いこの別荘の元主が頭に浮かぶ。
「これでいいの?」
「サイズ合いそうだから」
あぁ、確かに彼女はサチと同じくらいの背丈だったな。
「桂木さん、ちょっとだけ着がえるので後ろ向いていてください」
「えっ、いや、着がえるなら俺、隣の部屋に行くから」
「いいですよ。上脱いでTシャツ着るだけですから。チャチャっとやりますんで」
チャチャっと……?
サチが着ている服に手を掛けたので慌てて後ろを向く。かさかさと着がえる音が狭い部屋の中に響く。
すごい、刺激的なんですけど。心臓バクバクいってるんですけど。
だけど、これって普通出来る事か? 俺、もしかして男として意識すらされていないんじゃないか?
着がえを済ませると、サチはウィッグを物珍しそうに手にとっている。
「あのドレッサー、外国の映画に出てくるやつみたい」
納戸といっても壁一面作り付けられた収納棚以外に、四畳半程の空間がある。部屋の片隅には、電球が幾つもはめ込まれたドレッサーが確かにあった。
「前にショーガールの映画を見たの。踊り子達がああいうドレッサーの前にずらりと並んでね、慌ただしくお化粧するのよ」
「テレビはあまり見ないけど映画は見るの?」
「洋画ばかりだけど、好きな監督のは見ますよ。あと、古いフランス映画とか好きなんです。絵を書くイメージがわくの」
へぇ、そうなんだ。こんな風に少しずつ、彼女を知っていくのが嬉しい。でも、俺の映画は見たことない訳ね、苦笑いを噛み殺す。
「桂木さんって……普通に街とか歩けるんですか?」
「いや、ほとんど無理。疲れるだけだし。ま、プライベートを守ってくれる店なら食事に行ったりできるけど、街を普通に歩いたら、身ぐるみ剥がされちゃうよ」
「身ぐるみ剥がされちゃうの?」
サチが目を丸くしている。
あ、でも、君の写真を引き伸ばす為に、真夜中にすっげぇ怪しい変装をして、何年ぶりかにコンビニに行ったよ。
……そう告白してしまおうかと思った。そうしたら、サチはどんな顔を見せるのだろう。言ってしまおうか?今このタイミングで?
こんな風に過ごせる休日は、めったにないんだ。今言わなかったら、サチをここに呼んだ意味もなくなってしまう。でも、何て言えばいいんだよ? 普通、こんなプライベートな場所に誘われたっていうだけでも、少しはそんな雰囲気を感じてくれるものかなと思っていてけど、今までの行動を振り返るあたり、彼女は何にも気付いていないみたいだし。
いつだって愛の言葉は望む間もなく降り注いできた。
俺が女に投げかける言葉なんて、ゲームのような口説き文句か、台本の台詞。
気持ちを伝える為の自分の言葉を俺は知らない。
下手な事を言って嫌われたら……。
情けないほどに途方に暮れちまった。
言わなくちゃ。
この手に君を繋ぎ止める為に……。
「付き合って欲しいんだ」
サチがゆっくりとこちらを振り返るのが見える。慌てて付け加える。
「……俺と」
言葉がうわずって、震えている。これは俺の声か?それに何だよこの告白、ムードもタイミングも何もあったもんじゃない。もっと気のきいた告白があるだろうに。いや、頭は真っ白だ。舞台の上で台詞を忘れて立ち尽くしている気分。
「いいですよ」と、短く一言彼女は言った。
えっ本当に? にこりと笑いかけられる。あの絵本と同じ屈託のない笑顔。あまりの即答に唖然として、咄嗟に次の言葉が出てこない。
サチはおもむろにさっき出し散らかした服の山を探り始めた。この状況の流れでまたも予測不可能な行動だ。だけど、この高ぶった感情を少し落ち着かせるいい時間稼ぎになる気がして、俺もサチに合わせて会話を続けた。
「欲しいのあったら持っていってくれる?た ぶんコレみんな処分するだけなんだ」
「……あ、うん。ちょっと……」
ごそごそ。
サチがピックアップしていく服を見て、サイズが全然違うんじゃないか? と思った。だけど黙っていた。服を選ぶ女って、我が道をいくものだ。
「桂木さん、今日は一日お休みですか? ローマの休日ごっこしましょう」
「えっ?」
「平日休みって、意外と皆と予定合わなかったりするんですよね。あたし、今日は一日オッケーですから、とことん桂木さんにお付き合いできますよ」
もしかして、“付き合って”の意味を勘違いしてないか?
いや、ランチに付き合ってとか、遊びに行くのに付き合ってとか、そうじゃなくて……。
ばさっ。
頭に何かが降ってきた。ひょいっとサチが俺を覗きこんてくる。
ドクンっ
その距離が……あまりの至近距離で胸が跳ね上がる。
「あ、やっぱりコレ似合う」
伸びてきた指が俺の頬に触れて、そっと何かを払いのける。
「ショートボブ似合いますね。ほら、タランティーノの映画に出てくる女優さんみたい」
ショートボブ? 俺の頭に乗っている物ってまさか女物のウィッグ?
サチはにこにこしながら、さっき選んでいた服を俺に差し出してきた。優雅な透かし模様のある黒い麻のブラウス。ゆったりした白いボトムス。
混乱した頭の中で、この状況を理解しなくてはと必死で考えた。
ローマの休日ごっこ……
さっきのこの言葉に答えがあるはずだ。
ローマの休日。永遠の名作だ。
オードリヘップバーン扮する一国のプリンセスが訪問先のローマで城を抜け出し、自由奔放に街を探検する物語。美容院で髪を短くカットし雰囲気を変えて、アイスクリームを頬ばってみたり、スクターを乗り回してみたり。そして一緒に街で過ごしていた男と、恋に落ちるのだ。
恋、というイメージに希望は残されているのだろうか? いや、今差し出された女物のウィッグと服を再びちらりと見てやれば、そのささやかな望みは吹き飛ばされた気がする。
「これ、一番大きいサイズだから桂木さんでもイケると思う。後ろ向いているから着てみて、ね?」
もしかして、ドッキリカメラか?
一瞬、そんな妄想が頭をよぎった。いや、岡部がそんなものに手を出すはずがない。落ち目になったら手段を選ばず、お笑い系に俺を引きずり出す事など躊躇しない男だが、今はそのタイミングではないはずだ。
サチは隠れんぼの鬼のように壁に向かって目を閉じている。のろのろと服を脱ぐ。まるで命令に忠実な飼い犬だ。
パンツは紐で絞って調整をするようなデザインだったので、ウェストのサイズに問題はなかった。
「着がえ終わったけど……」
その言葉にサチは振り向いた。う〜んと、眉間に皺を寄せて考え込むと、クローゼットの引き出しを漁り始める。そして宝物を探し出したらしく、嬉しそうに振り返ってみせた
その手に握りしめられている物を見て、俺は愕然とした。
……嘘だろう? あの人、そんなもんまで置いていったのかよ。
「やるからにはとことんやりましょう」
サチの口調は固い決意に満ちていた。
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