『夜分、恐れ入ります。檀プロダクションの岡部と申しますが』
あ、トンビと、喉元まで込み上げてきた台詞を飲み込んだ。良かった。言わなくて。丁度、このパーティでひらめいた、妖精の舞踏会の下絵に取りかかっていた。トンビの羽を持つ怪しげな堕天使を、どの場所に登場させようかなどと、思っていたところに携帯のベルが響いたのだ。
「急なお誘いで恐縮なのですが、桂木が明日是非サチさんを三浦海岸の別荘にお招きしたいという事なのですが、ご都合いかがでしょうか?」
「はぁ」
桂木さんの別荘? ご招待?
また、パーティでもあるのかしら。一瞬、ナオの顔が浮かんだ。汚名返上しなくてはっ!頭の中ではぐるぐるとそんな事を考えながらも、ウンともスンとも明確な返事をしないあたしにしびれを切らしたのだろう。岡部さんが怪訝そうな声色で 『あの、ご都合はいかがでしょうか』と再び受話器の向こうから問いただす声がする。
「はいっ。行きます!」
思いがけず、妙に元気な声を出してしまい、気恥ずかしくなる。でも、良かった。
今度こそ、サインを忘れずに貰おう。そうだ本を一冊持っていって、ナオさんへと一筆入れてもらえばきっと、もっと喜んでくれるはずだ。内緒にして、今度ランチする時にでも突然渡して驚かせちゃおう。
そんな事を考えていたらワクワクしてきた。ワクワクは心をこしょこしょとくすぐる。何だかこそばゆくて、その夜はなかなか寝つけなかった。
ピンポーン
あ、この音好き。
出っぱっているボタンを押すマンガの擬音って感じ。寝起きのシーツのぬくぬくも好き。
ぬくぬく。
ピンポーン。
ぬくぬく。
ピンポーン。
あっ。やばーい!!!!
バタバタと玄関に向かうと、今度は携帯のベルが鳴り出した。朝寝坊確定。
ガチャッとドアを開けると岡部さんが立っていた。スリムなスーツに細い革のネクタイ。黒ぶちの眼鏡。その奥の切れ長の瞳。手にはスマホが握られている。
あの、渋谷のファッションビルの巨大ポスター。桂木ユウタの代わりに、目の前の男の写真が張り出されていたとしても、何の違和感もないかもしれない。キャッチコピーはこうだ。
“モーニングコールで愛を語ろう”
寝起きのまま飛び起きたあたしの姿に、彼の瞼がパチッと瞬いた。
「すっすいませんっ」
モーニングコールなんて言っている場合じゃない。
すぐに支度しますからと、ダイニングのテーブルに岡部さんを座らせて、慌てて隣の部屋で支度をする。
「あのっ今日のパーティって、フォーマルですか?」
1DKの部屋だ。仕切り戸の向こう側の声など筒抜けだ。
「パーティ? いや、フォーマルもなにも、桂木はあなただけをお誘いしたのです」
「えっ?」
黙り込んだあたしに、 「説明不足でしたね」と岡部さんがぽつりと付け足したように口にする。
「あの、じゃあほんとに普段着でもいいでしょうかね」
「構いませんよ」
たぶん、その返事から十分かからなかったかと思う。
ガラッ。扉をあけると、一瞬、頭からつま先までジロジロと流れるような視線を感じる。
「用意は……いいですか?」
何かが足りないのでは? と、言いたげな口調で岡部は確認してくる。
ジーパンにインド綿のチュニック。髪は寝癖をごまかす為にゴムでまとめた。顔も洗った。化粧は唇に保湿剤入りの薄い色つきリップを乗せただけ。だって普段着でいいっていったもん。あ、そうだサインしてもらう本。あたふたとバックにしまいこむ。
「夕べは遅くまでお仕事だったのですか?」
テーブルの上に置きっぱなしのデザインの下絵を眺めて、岡部さんはそう言いながら椅子から立ち上がった。あ、あの絵……。
「そっ、そうなんです」
寝坊をしたいい訳と、絵の右端に書いたトンビの羽根を持つ、ちょっと眼光の鋭い堕天使を誤魔化すように、ワンオクターブ高い声で答える。
あ、まただ。顔が赤くなるのがわかる。この人の前で、ニ度目だ。苦手……。あたしがじゃなく、彼みたいなタイプは、あたしのような女は苦手だろうなと思う。てきぱきとした人って、あたしのスローペースが信じられないと感じるらしい。今までの人生経験。
ナオくらいだな。あたしの歩調に合わせられるの……。
「急なお誘いで申し訳ありません。では、行きましょうか」
彼が玄関を出て行く時になって、今更に気付いた。
やばい、お茶も出していなかった。
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