現実とは思えなかった。あのパンフレットを目にしていたのだから、ここが特別な場所だなんて認識はあったのに。
だけど……風になびく椰子の葉影から響く鳥の声。
あおいゼリー色の浅瀬を吹き抜ける潮風の匂い。
南国のお日様の下で囁かれるユウちゃんの声。
視覚だけでは味わえない、五感への刺激が密やかに送り込まれてくる。びちょびちょの服のまま、並んでユウちゃんとコテージに戻った。裏庭のシャワーはサッチャンに譲るよと、彼は部屋のバスルームに消えていった。お日様の下で浴びるシャワーは、やっぱり最高に気持ち良い。ぱちゃぱちゃ。細かく身体を水飛沫が跳ね上がる。ほんの少し陽射しにさらされただけのなのに、既に火照った肌をぬるいシャワーで冷やすように浴びる。
あれ?
なぁに、これ……。
信じられない。
あれ?
あたし、今あっちの世界にいるんだっけ? 絵を描いている時、幻想とまではいかなくても、あたしは頭の中がメルヘンな世界に倒錯する癖がある。だけど、仕事は終わらせてきたはず。目をパチパチして深呼吸し、再び目の前の現実を凝視する。南国の日差しが水飛沫に溶けて、小さな小さな虹を作っていた。
「ユッ……ユウちゃんっ!」
ガタッガタッ!
室内の方から物音がしたかと思うと、あたしのいる裏庭の扉がノックされた。
「どっ……どうしたの? サッちゃん、何かあった?」
慌てた声。あ、あたし裸だった。今更に気付き、脇に置いてあったバスローブ羽織ると、カチッっと裏庭の扉を開く。
「見てっ、ほらシャワーの水飛沫でに虹が出来てるの」
細く開いたドアの隙間から、ユウちゃんはこちらを覗き込んでいる。ね、すごいよね。ん?そんな隙間からよく見えるのかな。
ガチャッ。
ドアを大きく開け放つ。
「さっさっさっちゃんっ」
ユウちゃんが、慌てた様子で一歩退く。
あ……。上半身、裸で、腰巻のようにバスタオルをまとった姿。あたしの声に慌てて、部屋のバスルームを飛び出して来たに違いない。まだ、シャワー浴びてたんだ。ユウちゃんの髪から滴る水滴が、肩におちて、するすると身体を滑り落ちていく。綺麗な筋肉にそって。無意識に肩のホクロを目で追っていた。滴り落ちる水滴に包まれたそれは、泣きボクロのように色っぽく見えた。
どくんっ。
やだ、あたしったら、裸の彼を呼びつけたりして、何やってるんだろう。
「サッちゃん」
ユウちゃんに呼びかけられているというのに、視線があちこちに泳いでしまう。
「本当だ。綺麗だね」
優しい声色に、はっと顔を上げる。照れくさそうに微笑む、ユウちゃんの顔があった。
……今更になって意識しちゃうよ。あたしだって二十三歳、いい大人なのだ。男の人と一週間こんな場所で過ごしたら何がおこるかなんて、当たり前のことなのだ。
急に押し黙ったあたしに、ユウちゃんは違和感を持ったみたいだ。どうしたの? という眼差しを投げかけてくる。
ううん。
誤魔化すように笑ってみせて、再び小さな虹に視線を戻す。小さすぎて七色とまで認識出来ないけれど、やっぱりそこには虹があった。ちょっとだけ緊張していた身体から、すとんと力が抜ける。
……ユウちゃんとなら大丈夫。そう思ったら、なんだかゆったりと寛いだ気分になれた。
水着に着がえてドーニに向かう。
藍色の腰巻をした三人のボートクルーが人懐こい笑顔で迎えてくれた。アダムは深緑の腰巻だから、役割で色分けされているのだろうか。
「ちょっとだけ近場を一周、ドーニを出してみようかだって」
ユウちゃんが、アダムの台詞を同時通訳してくれる。
あたしって。
あたしって。
確かイギリスに行った時も、ナオがこんなふうにしてくれていたっけ。帰国した時に反省して、駅前留学を決意したはずだったのに。そんなのは、翌日にはすっかり忘れてしまった。
「どうする? サッちゃん」
ユウちゃんがそう、問いかけてくる。遠目で見るのとは違い、目の前に浮かぶドーニは思ったより素朴な船だった。映画なんかでよく見るクルーザーなんかとは違う、木を組み合わせた作り。けれども、蒼い空と海に映える真っ白い帆が、この南国には相応しく見える。
「うん、ちょっと一周乗ってみたいな」
ドーニを引き寄せると、ボートクルーはあたし達を船に乗せてくれた。扉を開け、船内を案内される。思ったより中は広々としていて、ちょっと驚かされた。キングサイズの大きなベッド。クッションが並んだソファー。小さなキッチンには赤いミニ冷蔵庫までついている。壁に連なる窓からは、外の陽射しが惜しみなく室内を照らし出していた。
今度はキャビンを出て、船の上を案内される。タープが張られた日影には、クッションというには大きすぎる、ふかふかのサンベッド。ここで、潮風を受けながら、のんびりと通り過ぎていく島々を眺められるのだろう。
アダムがテーブルに、色鮮やかな南国のフルーツを運んできてくれる。マイドーニ、この船が二人だけの為に動くのだなんて、未だに信じられない。
“好きな時に好きな物を好きな場所で24時間、全てリクエストに答えてくれるらしい”
あぁ、どうしよう。また走り出したい気分だ。わくわくが止まらないよ。
ザッザンッ……。
まるであたしの気持ちを代弁するかのように、ドーニは海を滑り出した。潮風を受けて、膨らむ白い帆がバタバタとはためく。わぁ、すごいすごいっ。先端で海水を掻き分ける船首をのぞき込む。水飛沫が船上まで跳ね上がてくる。
すっと、ユウちゃんの手があたしの背後から伸びてきた。長い両腕があたしの身体をすっぽりと挟み、船のへりを掴む手の上にユウちゃんの指が重ねられる
「嘘みたいだ。サッちゃんとここにいるのが」
肩越しに耳元で囁かれる。
「幸せすぎて、俺、胸がいっぱい」
ユウちゃんは、独り言のようにぽつりと言うと、洗いざらしのあたしの髪にそっと唇を寄せた。
……どうして? どうしてあたしなんだろう。あたし、なぁんにもユウちゃんに与えられるモノなんて持っていないのに。約束破ってちゃっかり禁断のDVDを見ちゃったり、お料理だって食べるの専門だし、気の利いた事も言えないし、鈍くさくて色気もないよ? それに、こんな状況でドキドキしながらも、ユウちゃんの息がこそばいなんて笑いを堪えている特異体質。
あたしなんかでいいの?
ヒロ……。今ここに彼ではなくあたしがいる理由は、異性だったから、ただそれだけな気がする。いや、こんなご時世だ。ユウちゃんの感性によっては同性でも問題ないかもしれないのだ。ヒロの気持ちを知りながら、知らんぷりしてていいのだろうか。いや、もちろんあたしから伝えるような事ではないなんてわかっている。だけど、ユウちゃんだけが気づいていないなんて。
……ん? あれっ。船体と並ぶように海面を流れていく影が3つ。
「ドルフィンッ」
「すげっ、イルカだってサッちゃん」
アダムと同時通訳のユウちゃんの叫び声。
ドルフィンくらいはわかるよ、うん。……えっ、本当に? ドルフィン?
「わぁぁっ、すごいっ。きゃぁぁ〜可愛い」
身を乗り出したら、ぎゅって、ユウちゃんに支えられた。
「あんまり覗き込んだら、海に落ちちゃうよ」
ユウちゃんが作り出す、腕の空間。ゆとりがあるくせに、危ない時には、柔らかく心地良くあたしを包み込む。照れくさくて振り向く事が出来ない。だから、そっと背中を寄せてみた。
水着姿に羽織ったパーカーはボタンをかけずにはだけているのだろう。直接、背中越しに彼の肌の温もりを感じる。ゆっくりと瞼を閉じると、とくとくと刻まれる鼓動さえ伝わってきた。
ずるい女だ。あたしは。ついさっきまで、ヒロの事を気付いていないユウちゃんを手に入れるのは、フェアじゃないなんて、いい子ぶっていた癖に。彼の腕の中にいると、どこかで知らないままでいて欲しいなんて願っている自分がいる。真っすぐに注がれる眼差しが流れて行かないで、なんて。
こんな気持ちを知ってしまった。ユウちゃん、どうしてだろう、幸せなのに胸が痛いよ?
どうして?
どうして?
ちくん。ちくん。
あの時指に触れたバラの刺が、胸の奥深くに埋め込まれてしまったかのようだ。それは不意打ちに、あたしの心を小さく突き刺しながら震えてみせる。
遊んでっ遊んでっ。
そんなイルカの鳴声が聞こえたのは錯覚だろうか。海面すれすれを並んで泳ぐイルカ達が、数日前、公園でボールを一心に追いかけていたカナと重なる。ふふっと、微笑ましくて笑いがこぼれた。
ねぇ、ユウちゃん。あたしを見つけ出してくれてありがとうね。心でそう呟きながらも、気恥かしくてやっぱり口にする事は出来ない。次にいつチクチクが襲ってくるかなんて分らないけれど、今はただこの心地良い時間に身を任せていたい。
だって、ほら、クリスタルラグーンに抱かれた贅沢なバカンス。小さな傷なんて楽園の風が、優しく癒してくれるに違いないのだから。
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