イルカの海(サチ)21話

投稿日:2018-09-23 更新日:

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現実とは思えなかった。あのパンフレットを目にしていたのだから、ここが特別な場所だなんて認識はあったのに。

だけど……風になびく椰子の葉影から響く鳥の声。

あおいゼリー色の浅瀬を吹き抜ける潮風の匂い。

南国のお日様の下で囁かれるユウちゃんの声。

視覚だけでは味わえない、五感への刺激が密やかに送り込まれてくる。びちょびちょの服のまま、並んでユウちゃんとコテージに戻った。裏庭のシャワーはサッチャンに譲るよと、彼は部屋のバスルームに消えていった。お日様の下で浴びるシャワーは、やっぱり最高に気持ち良い。ぱちゃぱちゃ。細かく身体を水飛沫が跳ね上がる。ほんの少し陽射しにさらされただけのなのに、既に火照った肌をぬるいシャワーで冷やすように浴びる。

あれ?

なぁに、これ……。

信じられない。

あれ?

あたし、今あっちの世界にいるんだっけ? 絵を描いている時、幻想とまではいかなくても、あたしは頭の中がメルヘンな世界に倒錯する癖がある。だけど、仕事は終わらせてきたはず。目をパチパチして深呼吸し、再び目の前の現実を凝視する。南国の日差しが水飛沫に溶けて、小さな小さな虹を作っていた。

「ユッ……ユウちゃんっ!」

ガタッガタッ!

室内の方から物音がしたかと思うと、あたしのいる裏庭の扉がノックされた。

「どっ……どうしたの? サッちゃん、何かあった?」

慌てた声。あ、あたし裸だった。今更に気付き、脇に置いてあったバスローブ羽織ると、カチッっと裏庭の扉を開く。

「見てっ、ほらシャワーの水飛沫でに虹が出来てるの」

細く開いたドアの隙間から、ユウちゃんはこちらを覗き込んでいる。ね、すごいよね。ん?そんな隙間からよく見えるのかな。

ガチャッ。

ドアを大きく開け放つ。

「さっさっさっちゃんっ」

ユウちゃんが、慌てた様子で一歩退く。

あ……。上半身、裸で、腰巻のようにバスタオルをまとった姿。あたしの声に慌てて、部屋のバスルームを飛び出して来たに違いない。まだ、シャワー浴びてたんだ。ユウちゃんの髪から滴る水滴が、肩におちて、するすると身体を滑り落ちていく。綺麗な筋肉にそって。無意識に肩のホクロを目で追っていた。滴り落ちる水滴に包まれたそれは、泣きボクロのように色っぽく見えた。

どくんっ。

やだ、あたしったら、裸の彼を呼びつけたりして、何やってるんだろう。

「サッちゃん」

ユウちゃんに呼びかけられているというのに、視線があちこちに泳いでしまう。

「本当だ。綺麗だね」

優しい声色に、はっと顔を上げる。照れくさそうに微笑む、ユウちゃんの顔があった。

……今更になって意識しちゃうよ。あたしだって二十三歳、いい大人なのだ。男の人と一週間こんな場所で過ごしたら何がおこるかなんて、当たり前のことなのだ。

急に押し黙ったあたしに、ユウちゃんは違和感を持ったみたいだ。どうしたの? という眼差しを投げかけてくる。

ううん。

誤魔化すように笑ってみせて、再び小さな虹に視線を戻す。小さすぎて七色とまで認識出来ないけれど、やっぱりそこには虹があった。ちょっとだけ緊張していた身体から、すとんと力が抜ける。

……ユウちゃんとなら大丈夫。そう思ったら、なんだかゆったりと寛いだ気分になれた。

 

水着に着がえてドーニに向かう。

藍色の腰巻をした三人のボートクルーが人懐こい笑顔で迎えてくれた。アダムは深緑の腰巻だから、役割で色分けされているのだろうか。

「ちょっとだけ近場を一周、ドーニを出してみようかだって」

ユウちゃんが、アダムの台詞を同時通訳してくれる。

あたしって。

あたしって。

確かイギリスに行った時も、ナオがこんなふうにしてくれていたっけ。帰国した時に反省して、駅前留学を決意したはずだったのに。そんなのは、翌日にはすっかり忘れてしまった。

「どうする? サッちゃん」

ユウちゃんがそう、問いかけてくる。遠目で見るのとは違い、目の前に浮かぶドーニは思ったより素朴な船だった。映画なんかでよく見るクルーザーなんかとは違う、木を組み合わせた作り。けれども、蒼い空と海に映える真っ白い帆が、この南国には相応しく見える。

「うん、ちょっと一周乗ってみたいな」

ドーニを引き寄せると、ボートクルーはあたし達を船に乗せてくれた。扉を開け、船内を案内される。思ったより中は広々としていて、ちょっと驚かされた。キングサイズの大きなベッド。クッションが並んだソファー。小さなキッチンには赤いミニ冷蔵庫までついている。壁に連なる窓からは、外の陽射しが惜しみなく室内を照らし出していた。

今度はキャビンを出て、船の上を案内される。タープが張られた日影には、クッションというには大きすぎる、ふかふかのサンベッド。ここで、潮風を受けながら、のんびりと通り過ぎていく島々を眺められるのだろう。

アダムがテーブルに、色鮮やかな南国のフルーツを運んできてくれる。マイドーニ、この船が二人だけの為に動くのだなんて、未だに信じられない。

“好きな時に好きな物を好きな場所で24時間、全てリクエストに答えてくれるらしい”

あぁ、どうしよう。また走り出したい気分だ。わくわくが止まらないよ。

ザッザンッ……。

まるであたしの気持ちを代弁するかのように、ドーニは海を滑り出した。潮風を受けて、膨らむ白い帆がバタバタとはためく。わぁ、すごいすごいっ。先端で海水を掻き分ける船首をのぞき込む。水飛沫が船上まで跳ね上がてくる。

すっと、ユウちゃんの手があたしの背後から伸びてきた。長い両腕があたしの身体をすっぽりと挟み、船のへりを掴む手の上にユウちゃんの指が重ねられる

「嘘みたいだ。サッちゃんとここにいるのが」

肩越しに耳元で囁かれる。

「幸せすぎて、俺、胸がいっぱい」

ユウちゃんは、独り言のようにぽつりと言うと、洗いざらしのあたしの髪にそっと唇を寄せた。

……どうして? どうしてあたしなんだろう。あたし、なぁんにもユウちゃんに与えられるモノなんて持っていないのに。約束破ってちゃっかり禁断のDVDを見ちゃったり、お料理だって食べるの専門だし、気の利いた事も言えないし、鈍くさくて色気もないよ? それに、こんな状況でドキドキしながらも、ユウちゃんの息がこそばいなんて笑いを堪えている特異体質。

あたしなんかでいいの?

ヒロ……。今ここに彼ではなくあたしがいる理由は、異性だったから、ただそれだけな気がする。いや、こんなご時世だ。ユウちゃんの感性によっては同性でも問題ないかもしれないのだ。ヒロの気持ちを知りながら、知らんぷりしてていいのだろうか。いや、もちろんあたしから伝えるような事ではないなんてわかっている。だけど、ユウちゃんだけが気づいていないなんて。

……ん? あれっ。船体と並ぶように海面を流れていく影が3つ。

「ドルフィンッ」

「すげっ、イルカだってサッちゃん」

アダムと同時通訳のユウちゃんの叫び声。

ドルフィンくらいはわかるよ、うん。……えっ、本当に? ドルフィン?

「わぁぁっ、すごいっ。きゃぁぁ〜可愛い」

身を乗り出したら、ぎゅって、ユウちゃんに支えられた。

「あんまり覗き込んだら、海に落ちちゃうよ」

ユウちゃんが作り出す、腕の空間。ゆとりがあるくせに、危ない時には、柔らかく心地良くあたしを包み込む。照れくさくて振り向く事が出来ない。だから、そっと背中を寄せてみた。

水着姿に羽織ったパーカーはボタンをかけずにはだけているのだろう。直接、背中越しに彼の肌の温もりを感じる。ゆっくりと瞼を閉じると、とくとくと刻まれる鼓動さえ伝わってきた。

ずるい女だ。あたしは。ついさっきまで、ヒロの事を気付いていないユウちゃんを手に入れるのは、フェアじゃないなんて、いい子ぶっていた癖に。彼の腕の中にいると、どこかで知らないままでいて欲しいなんて願っている自分がいる。真っすぐに注がれる眼差しが流れて行かないで、なんて。

こんな気持ちを知ってしまった。ユウちゃん、どうしてだろう、幸せなのに胸が痛いよ?

どうして?

どうして?

ちくん。ちくん。

あの時指に触れたバラの刺が、胸の奥深くに埋め込まれてしまったかのようだ。それは不意打ちに、あたしの心を小さく突き刺しながら震えてみせる。

遊んでっ遊んでっ。

そんなイルカの鳴声が聞こえたのは錯覚だろうか。海面すれすれを並んで泳ぐイルカ達が、数日前、公園でボールを一心に追いかけていたカナと重なる。ふふっと、微笑ましくて笑いがこぼれた。

ねぇ、ユウちゃん。あたしを見つけ出してくれてありがとうね。心でそう呟きながらも、気恥かしくてやっぱり口にする事は出来ない。次にいつチクチクが襲ってくるかなんて分らないけれど、今はただこの心地良い時間に身を任せていたい。

だって、ほら、クリスタルラグーンに抱かれた贅沢なバカンス。小さな傷なんて楽園の風が、優しく癒してくれるに違いないのだから。

 

 

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