ぴっ
添付されたファイルを開くと、セーラー服を着た陸が少し不安気な眼差しで写っていた。
お、随分とおめかしして……と思ったら、幼稚園の制服か。
何だか、ほんの少しの間にまた大きくなった気がする。
赤ちゃんだったのにさ……
「何をにやにやしている」
撮影の間、メインキャストに与えられるオフィスと楽屋を兼ねたトレーラーの中で、岡部が怪訝そうな眼差しを投げてくる。
携帯電話のディスプレイを奴の目の前に差し出してやると、「馬子にも衣装だな」と憎まれ口を叩きやがった。
だけど、目が笑っているよ岡部ちゃん。
口元だけで薄く笑うコイツお得意の、馬鹿にしたような皮肉さがない。
「いいよなぁ、岡部ちゃんは……明日何時の便?」
「夕方だ。12時間飛行機に揺られて、日本にたった二泊してとんぼ返りだ。羨ましがられるもんじゃない」
「仕事で忙しい中悪いけどさ、合間にウチの様子見てきてよ」
「陸の幼稚園の園長に挨拶してくるさ。桂木ユウタの息子をくれぐれもよろしくってな」
「陸もだけどさ……さっちゃん……」
「は?」
「また2ヶ月もほったらかしで俺、捨てられないかな……」
「犬みたいな面で情けない事言うな」
「だってよ……」
「悪い虫がついていないかチェックしてきてやるから安心しろ」
えっ。
悪い虫……悪い虫って
それって浮気って事?
さっちゃんが、浮気っ。
「……俺も明日一緒に帰る」
「冗談だ」
「お・か・べ~っ。エコノミーでいいから、座席、今すぐ押さえてくれよっ」
「いい加減にしろ。明日はマットとの絡みのシーンだ。お前がずっと憧れていたマット・ジョーンズとのな」
マット・ジョーンズ
過去のオスカー受賞2回。ノミネートだけならば数え切れない。
最近は俳優のみならず、監督業にまで手を伸ばしている大御所。
この男と肩を並べてスクリーンに映るなど、10年前の俺には想像さえ出来なかった事……
「……さっちゃんに来月には飛んで帰るからって伝えといてよ」
「それ、何回も何回もこの前の電話でサチに繰り返していただろうが」
「お前からも言っといてくれよ……頼む」
わかったと、口にはせずに岡部が飽きれた視線を送ってくる。
「小学校の入学式には、揃って行きたよな……親子らしくさ」
「2年後のスケジュールまではまだ決まってないからな。ユウタ、役者は親の死に目にも逢えない商売だぞ」
「……馬鹿みてぇ……なんだよそれ」
「それぐらいの覚悟がいるって話だ」
がちゃっ
手にしていたコーヒーカップを投げるようにテーブルに置く。
「岡部、俺はな……どんな役者相手にだって、マット・ジョーンズと並んでカメラを向けられたって、絶対に引けを取らない演技をしてみせる。
だけどな、それとさっちゃんの死に目にも逢えないって話は別だ」
「……誰もサチの死に目とは言っていない。役者をやる上での心構えみたいな話だ」
落ち着けよと、岡部は俺の肩を叩いた。
「お前がベストを尽くせる環境を考えている」
「……なんだよそれ」
「まぁ、またゆっくり話すさ。とりあえずサチには俺から詫びを入れておくから」
「……本当?」
鬼マネージャー岡部の背後に後光が射して見える。
「あぁ、ユウタが毎日サチに逢いたいって言ってるって伝えておくさ」
投げやりな口調が気に入らないが、そんな不満は飲み込んだ。
自由の少ない身としては頼みの綱だ。
すがるような眼差しを投げかけると、お得意の薄ら笑いが返ってきた。
……なんだよ、気持ち悪ぃな。
「お前は運がいいからな。ほら、サチが子供生む時だってあんなスケジュールの合間に立ち会えたじゃないか。
それにしてもあの時の赤ん坊が幼稚園の制服着ているなんて、子供の成長って凄いのな」
岡部の言葉の語尾が……懐かしむような響きを含ませていて、改めて携帯のディスプレイの写真をまじまじと眺める。
5年前。そう、5年前のあの日、神様は俺を見捨てていなかった。
お腹の大きなさっちゃんが、庭のブランコで揺れていた。
ゆっくり
ゆっくり
揺り籠を揺らすように……
『ユウちゃん、もう、わかってるってば隠れてるのなんて。お帰りなさい。パリはどうだった?』
驚かそうと思っていたのに、さっちゃんは妊娠してから妙に勘が鋭いんだ。
照れ笑いをしながら木の陰から身を乗り出す。
『あのね、さっき実家のお母さんと電話してたの。来週からお産の準備のために来てくれるって』
『そっか、そりゃ安心だ。さっちゃんもお母さんとのんびり過ごすのなんて久しぶりでしょ?』
『うん、なんだか最近思うの。ウチのお母さんもあたしの事を生む時、こんな風にお腹で育ててくれたんだなぁって……』
『……女の人って凄いね』
サチは照れ臭そうにはにかんで、日が暮れ出したシンガポールの空を仰いだ。
大きなお腹をそっと愛しそうにさする。
こんな時のサチは本当に綺麗だ。子供みたいな笑顔にふと、母親の顔を垣間みせる。
さっちゃん。
さっちゃん。
その大きなお腹の中身はなぁに?
信じられないよ、俺とさっちゃんの子供がいるだなんて。
サチが、再び大きなお腹をそっと愛しそうにさする。
羨ましくって、競り合うように跪いてさっちゃんの膝に頭を乗せる。
俺も、撫で撫でして欲しい。
『ユウちゃんが赤ちゃんみたいね』
からかうようにクスクスとサチが笑う。
……幸せだと思った。
こんなに満たされた思い……怖いほどの幸福感。
『あ、動いてるよほら』
ここだよって、サチがくすぐったそうに指差す。
誘われるようにそっと頬を寄せてみた。
むにょむにょ。
『……びっ、びっくりした!』
ふわり。
お腹をさすっていた手の平が、そっと俺の頭に添えられる。
本当に子供に返った気分になる。
そっと瞼を閉じてサチの指の感触を味わっていたら……
ボコっ
お腹にくっつけていたおでこに強い衝撃を受けた。
『なっ何?何っ今のっ』
『あらら、パパの頭蹴っちゃ駄目よ』
蹴り?蹴りを入れられた?
小さな足から敵意を感じたのは気のせいだろうか?
気のせいだ。何を言っている。
サチと一心同体のお腹の子供が羨ましいなんて、馬鹿馬鹿しい思いを密かに抱いている事を、見透かされちまっているのかと……
俺っておかしいのかな?
だって、羨ましくって、羨ましくって……
『ヒロは一緒じゃないの?ご飯作ってあるよ』
『あ、ちょっと煙草を買いにコンビニに寄ってくるって……すぐ来るよ』
ドアに向かって二人で歩き出す。
お腹の大きなサチの足元はバランスがとられるのか少しおぼつかない。
そっと指を絡め、その手を引く。
『今日はね、ビーフシチュー作ったの。ほら、北原さん仕込みの特製すね肉ビーフシチュー』
『さっちゃんの得意料理だね』
ダイニングに入ると、濃厚なデミグラスソースの香りに包まれる。
サチは鍋を暖めなおすからとキッチンに入っていった。
テーブルには3人分の食器がセットされている。
俺とサチと岡部……
人から見たら奇妙な関係かもしれない。
だけど、更にこの三角関係に一人加わるなんて……不思議だ。
想像も出来ない。
がちゃんっ
キッチンから、食器が床に落ちる音が響いた。
『大丈夫?さっちゃん』
慌ててカウンターキッチンに視線を向けてみたが、そこに立っているはずのサチの姿が見えない。
え、どこ?さっちゃん……
部屋から直接繋がるキッチンのドアをくぐり抜け周りを見渡すと、床にうずくまるサチの姿があった。
『さっちゃん!!!!!』
駆け寄ると、サチは小さくうめいている。
『お腹……い……痛ぁい……ユウちゃん……』
さぁーと、血の気が引く。
まだ予定日までは1ヶ月ほどあるはず。
どっどうしたらいいんだ?
『おいっ!どうした』
背後から聞き馴れた声が響く。
お……岡部ちゃん。
『きゅっ急にさっちゃんが痛いって……どうする?救急車かっ?おいっどうしたらいい?』
『サチは昨日から正期産……37週目に入っている。まだ予定日じゃないが、もう、いつ生まれても大丈夫だ』
37週?
何だよそれ、え?もう生まれても大丈夫なの。
訳がわからず、痛がるサチの背中をさすることしか出来ない。
『この前電話で言っといたが、荷物はもうまとめてあるか、サチ』
苦痛に眉間を寄せながら、サチは岡部を見上げてゆっくりと頷いてみせた。
荷物?荷物って??
『ヒ……ロ、あたしの車のキーはテーブルの上にあるか……ら、入院用の荷物はソファーの脇……』
しばらくガチャガチャと、物を探す音がしていたが、『いくぞ』と岡部の低い声に呼ばれる。
『さっちゃん、おぶってあげようか?』
『ううん、大丈夫ゆっくりなら……歩けるから』
ふぅ、ふぅ、とサチは痛みを逃すように小さく息を吐いている。
抱きかかえるように身体を支えながら、玄関に岡部がつけた車に乗り込む。
自分が情けなかった。
ただ、オロオロしている己が恥かしいほどに滑稽に感じた。
サチは車のバックシートにもたれて、苦しそうに身体を強張らせている。
やがて、はぁっ、と大きく息をつくと、俺の肩におでこを乗せてきた。
『ちょっとだけ、波が収まった。やっぱり陣痛みたいだよユウちゃん』
『……そっか、ごめん俺、何の役にも立たなくって……』
サチはきょとんとした顔で俺を覗きこんできた。
『馬鹿ねぇ、ユウちゃん』
汗ばんだ手が俺の腕にそっと絡みつく。
『ユウちゃんが居てくれて、あたしすっごく心強い。きっと赤ちゃんがタイミング見計らってくれたんだね』
さっきおでこを小さな足に蹴り上げられた感触。
親父、しっかりしろよと、喝を入れられたのかもしれない。
産院には20分ほどで到着した。岡部が手配してくれた日本人のドクターが居る病院だ。
ばたばたと、看護婦が駆け寄ってきて、サチを陣痛室へと運んでいった。
『えっと、立会いとか俺しなくていいのかな?』
『呼ばれるまでスタンバイしていろ。初産だ。そうそうすぐには産まれないさ』
『へ?そうなの』
『……多分な』
廊下の長椅子に男二人、並んで座る。
わざとらしい良くあるワンシーンのように……
通り過ぎていく看護婦がチラチラと落していく視線を感じたが、そんなことに気をかけている余裕などあるはずもない。
『岡部さ、よく知ってるのな妊娠の事までさ』
『……お前に関わる事だからな。女優に付くマネージャーだったら、日常、生理の日付まで管理するもんだ』
『……そう、なのか?』
それにしたってさ、あの冷静な判断。普通男だったらビビっちまわないか?
未知の領域っていうか……
あれ、何だこれ。岡部の麻の上着のポケットから、見慣れないものが飛び出している。
銀色の長い柄……これって何だ?
『岡部、ポケットに変なもん入っているぞ』
『あ?』
ごそごそと、岡部は上着のポケットに手を突っ込んだ。
そして出てきたものは……
銀色のスプーンがひとつ。
ありえない代物に二人で顔を見合わせる。
『さっき、テーブルの上の車のキーを突っ込んだ時に入り込んじまったみたいだな』
『……マジかよ』
呆れるって言うより安堵している自分が居た。
だってさ、あんな冷静だった岡部が、上着のポケットにスプーンを入れちまったなんて……コイツも実は相当に焦っていたって訳で。
『俺だって初めての経験だ。はっきり言ってどうやって車を運転してきたのか覚えてない』
ふて腐れた口調。
何だよ、カッコつけすぎだよ岡部ちゃん。早く言ってよ。
『はぁ、何だか気が抜けた』
『……ユウタ、本番はこれからだぞ』
『おっおう』
…………それから、数時間後にさっちゃんは子供を産んだ。
立会い出産は父親教室に参加していないと許されないのだと、分娩室には結局入れてもらえなかった。
岡部が色々と交渉してくれたのだが、看護婦は申し訳なさそうに規則だからと首を横に振った。
ごめんね、ごめんねさっちゃん。
長椅子に居た時間はゆうに4時間を越えていた。
長い長い、この時間を走り出すこともせずにやり過ごせたのはやっぱり岡部が居てくれたからかもしれない。
子供が生まれたからと、看護婦が招き入れてくれた部屋には、小さな小さな赤ん坊が、サチの隣でおとなしく眠っていた。
『2600グラムだって、やっぱりちょっと早かったみたい』
信じられない。本当に子供が生まれただなんて……
サチが人差し指でそっと子供の頬を撫でる。
お腹をさすっていた時と同じ仕草……
『さっちゃん、立会い出来なくってごめんね』
『ううん、だってユウちゃん本当は予定日の頃は撮影だったでしょ?まさか、立ち会えるなんて考えもしなかったから
父親教室の事なんて話さなかったの。あたしこそごめんね、外でずっと待っているの辛かったでしょう』
ブンブンと、首を横に振る。
辛かったのさっちゃんでしょ?
何も気の効いた台詞が出てこない。胸がいっぱいで、言葉が全て喉に引っかかっちまったままだ。
う~ん、と小さな唸り声を上げて、赤ん坊が伸びをした。
包んだ布の間から、小さな足が覗いている。
数時間前、サチのお腹の中から俺を蹴飛ばしたあの足だ。
そっと触れてみる。
壊れちゃいそうで怖かった。
赤ん坊ってもっとふっくらとしているもんだと思っていたけれど、生まれたてのせいか何処もかしこも皺くちゃだ。
看護婦が、ささっと慣れた手つきで子供を包みなおすと、抱き上げて俺に手渡してくる。
『え?』
『抱いてあげて、ユウちゃん』
赤ん坊は、拍子抜けするほどに軽かった。
だけど、手にした途端、その命の重みがずっしりと心に響いた。
俺と同じ水色の割烹着を着た装いで、岡部が脇から赤ん坊の顔を覗き込んでくる。
生まれたての赤ん坊は抵抗力が弱いからと、手渡された病院着を身に付けている岡部。
その見慣れない姿が、これは現実なのだと俺に思い知らせる。
皺くちゃの顔に更に皺を寄せて、赤ん坊が欠伸をした。
小さな口を一人前に広げてみせる。歯が一本もないのを不思議な気持ちで眺める。
『ヒロ……も抱いてくれる?』
サチがそう問い掛けてくる。
お願い……そんな響きさえ含ませて。
『いや、俺は……』
岡部はためらってみせた。コイツらしくもない、途惑いを隠すこともなく。
『これから長い付き合いになるんだ、よろしく頼む』
そっと手渡した。
自分が抱いているよりも、ヤツが抱いている方が何故か安心できる。
俺の手の平はもうぐっしょりで、落すんじゃないかとずっと冷や汗をかいていた。
……様になってるよ岡部ちゃん。
折り曲げた腕の中にすっぽりと包むように岡部は赤ん坊を抱いた。
じっと押し黙り、子供の顔を覗き込んでいる。
『お前に……ユウタにそっくりだな』
へ?そのお猿さん俺に似ているってか?
岡部は小さく笑うとゆっくりと赤ん坊をサチの枕元に返した。
『よく頑張ったな』
『……うん』
岡部はサチの髪をクシャリと撫でた。
おいおいおいおい。どっちが旦那だかわかんねぇぞ。
『俺は、先に家に戻っている。ユウタ、親子水入らずゆっくり過ごせ』
踵を返すと、呆気なく岡部は部屋を出て行った。
看護婦も、後で検診に来るからと居なくなり、二人……いや、三人きりにさせられる。
何か気の効いた話をしなくちゃ。
ちょいとハイテンションの俺は、岡部のスプーンの話をサチに語り出した。
くすくす。
サチはずっと笑いを噛み殺している。
悪ぃな、岡部……途中、先生に告げ口している子供の気分になった。
だけど、何か話していないと落ち着かなくって……
ふと、半袖のネグリジェから覗くサチの腕が、赤く腫れあがっている事に気付く。
『どっどうしたの?さっちゃんこれ』
『あ……これね……陣痛で訳がわかんない程に痛みがピークの時にね、
まだ今は身体に力を入れたら赤ちゃんが苦しいから痛みを逃してって助産婦さんが言うの。
でも上手く出来なくって。だから、陣痛が来るとここをつねってたの。指の先だけ力込めてね、身体はふぅって力を入れないようにって……』
『つねってたって……真っ赤だよ、こんなになるまで……』
動揺して、語尾が震えてしまう。
俺の様子に気を使ったのだろう、さっちゃんが慌てて言葉を付け足してくる。
『あ……でも、うん、腕の痛みは全然感じなかった。陣痛の痛みに比べたら腕つねるのなんて全然平気。
あんなんでよく赤ちゃん、ちゃんと産まれたなって思う。あたし、夢中で……って、ユウちゃんどうしたの?』
あ、やばい……
ぽたぽたと零れ出した涙を、もう堪えることなんて出来なかった。
辛かったのはさっちゃんなのに、どうして俺が泣いているんだ?
サチの赤く腫れあがった腕をさすりながら、込み上げてくる嗚咽。
さっちゃん
さっちゃん
命がけで子供を産んだんだ。
俺の子供を産んでくれた。
『ユウちゃん、ね、ご褒美頂戴?』
サチが甘えた声色で俺の腕を引っ張る。
ご褒美?
なんでもしてあげる。
ねぇ、さっちゃんの望むご褒美って何?
『頑張ったね、のキスをしてくれる?』
化粧っけのないサチが、真っ直ぐ俺を見つめながら手を差し伸ばしてくる。
『ユウちゃん、久しぶりに会ったのに、まだキスしてくれてないよ?』
そんな事……
ねぇ、さっちゃん、そんな事言われなくってもさ。
100回でも200回でもしてあげるよ。
そっと、ベッドに横たわるサチに覆い被さる。
間にはさんだ赤ん坊を押し潰さないようにそっと。
前髪をそっと払いのけて、最初のキスは感謝の気持ちを込めて、おでこにひとつ。
次の口付けはそっと閉じられた瞼に落す。
唇を離すと、サチは潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
堪らなく、唇を重ねようとした時だった……
ドカッツ
伸びをした赤ん坊に喉元を蹴り上げられる。
『ゲホっ、いっ……痛っぇ』
不意打ちの強烈なアッパーカット。
思わず後ろにのけぞっちまった。
『あらあら、窮屈なお腹の中から解放されたから、よく伸びをするのねぇ』
サチが感心したように赤ん坊に話し掛ける。
ほげっほげっ
顔を真っ赤にして、泣きじゃくり始めた。
『あれ、どうしたのかな?おっぱい欲しいのかなぁ?』
……おっぱい……
さっちゃんは、キスをしようとしていたことなんかすっかり忘れちまったように、赤ん坊をあやし始めた。
俺はこの時まだ気付いていなかった。
お腹の中から蹴り上げられたあの一撃が、赤ん坊……陸の宣戦布告だったなんて。
さっちゃんを巡っての男同士の長い戦いの幕開けだったなんて。
『さっちゃん、もう僕のお嫁さんだからね』
いっぱしに口が利けるようになったと思ったら、そんな言葉を俺に囁くようになった。
永遠のライバル。
それがヤツと俺の絆。
携帯のディスプレイに写った息子の姿を、改めてまじまじと眺める。
男っぷりを上げやがったな……
早く帰らなきゃ。
仕事を片付けて、飛んでいかなくちゃ。
こんな事を思い描く俺は父親失格なのかもしれない。
だけど……
いつもサチのそばに居られる、陸が羨ましくって羨ましくって。
とりあえず、サチに擦り寄ってくるヤツが居たら、お前が蹴散らしてくれよな。
すがるようなテレパシーを、セーラー服姿の息子にそっと送ってみた。