頬っぺたに触れるふわふわの温もり。
あ、何だかすごく懐かしい感じ、子供の頃抱き締めて眠ったウサギのぬいぐるみを思い出す。
ふわふわ。
ふわふわ。
気持ちいいなぁって、まどろんでいたら……。
ベロリン。
……え?
ベロッ、ベロッ。
おでこを小さな舌が舐めあげる。
……こそばゆい。ちょっと、ちょっとっ。
ぱっと、瞼を開くと犬のぬいぐるみが見えた。くりくりのぱっちりの瞳で上からこちらを見下ろしている。クゥ〜ンと甘えた声で鼻先を舐めあげられ……
「カナッ」
べッドから飛び起き、周囲を見回す。ラタン調の鏡台、壁に飾られたハワイアンキルトのタペストリー、アイボリー色のカーテンが陽射しをはらんで,、部屋の中に朝日を透かし入れている。
会った事もない人の部屋で目覚めるなんて不思議な気分。北原さんの娘さんの部屋。バッグの中から携帯を取り出す。
何だかバタバタしていて、結局昨夜はナオに電話も掛け直さないしないままだ。どうしよう、きっと、怒っているよね。けれど、今日はいつもより早めに出社するって言っていたから、今ごろは通勤電車の中だろう。
あ、ユウちゃんからのメールがきている、夜中の2時半って……。慌てて開いてみる。
『迷惑掛けてごめんね。ゆっくり会えるよう時間を作るから』
短いメール。だけど昨日、耳にした彼の告白を思い出す。
“誰かを愛するという深い感情を教えてくれた人です”
ユウちゃん。
熱い想いに、胸がきしみ痛みさえ感じる。あんなことテレビで言ってしまって、仕事に差し支えないのだろうか。彼のファンはどう受け止めたのだろう。きっと、ガッカリしたに違いない。
だって、あの写真のあたしったら、くちゃくちゃの顔で大きな口をあけて笑っていた。美人にはほど遠いよ。
ワンッワンッ
尻尾を振りながらカナが突然ドアに駆け寄っていく。カチッと遠慮がちに細くドアが開かれると、 「こら、カナっ、静かにしなさい」と、小さな声が響いた。ドアの隙間をカナが擦り抜けていく。
「起こしちゃうでしょ、吠えちゃ駄目よ」
ドアの向こうから小声でカナを咎める女の人の声。
「あ、おはようございます。起きてますから大丈夫です」
そう声を掛けると、ギィっとドアが大きく開かれた。
「ごめんなさいね、やっぱりカナが起こしちゃたんでしょう?」
北原さんの奥さんが、カナを抱きかかえて申し訳なさそうに入ってきた。
ふわりと人懐こい笑顔、優しい眼差し。
「おなか減ったでしょう? 朝ご飯出来ているから下に降りてきてね。ゆっくりしてからでいいから、ね」
「あ、ありがとうございます。着がえたら、すぐに行きます」
ワンッワンッ
「こらこら、カナは邪魔するから駄目よ。一緒に下で待ちましょうね」
トントンと、階段を降りていく音が聞こえる。ベッドの脇に置いた大きめのバッグから着がえを取り出しながら、ここに自分がいる事を改めて不思議に思った。
昨夜、ナオと電話の途中、部屋の呼び鈴が鳴った。もしかしたら、ヒロかもしれない。
そう思い、『ごめん、あとで掛け直すから』と、返事も聞かずに慌てて電話を切ったのだ。
来客は見知らぬ女性だった。きょとんとするあたしに、彼女は品のいい柔らかい声で言った。
『夜分遅く急にごめんなさいね。私、北原の家内でございます』
え、北原さんの奥さんって?
いろいろな事がありすぎて頭の中がオーバーヒートしている。返事も返せないあたしに、彼女はゆっくりと話始めた。
『北原に言われまして、お迎えに来たの。とりあえず2.3日必要な物だけ荷物をまとめてくださいね。私も、詳しい事はまだ聞いていないのだけれど、マスコミに追いかけられるだろうからしばらくウチで貴方をお預かりしますとだけ、聞かされていますの』
……マスコミ。実感がわかない。いつだって人々に取り囲まれるのはユウちゃんであって、自分がそのターゲットになるのだとは想像も出来なかった。
ばたばたと身支度を整え、北原さんの奥さんが運転する車でここに連れてこられた。これからどうなっちゃうんだろう?
階段を降りると、朝ご飯のいい香りが漂ってくる。カナが待ち構えていたように、足元に走り寄って来た。
「わぁ、美味しそうっ」
小ぶりの金目鯛の焼き魚。お野菜たっぷりのお味噌汁。ダシ巻き卵にはシラスをあえた大根おろしが添えられている。
あ、今更に思い出した。
カウンターキッチンの向こう側で、ご飯をよそう北原さんの奥さんに声を掛ける。
「あの、前に公園でカナの散歩に出かけた時、お弁当美味しかったです。御馳走様でした」
「あら、いえいえ、やだ、そうよね。あの時はご一緒できなくて残念だったわ」
ご飯茶碗を差し出しながら、彼女は屈託のない笑顔を向けてくれた。年相応に目尻に皺なんてあるけれど、綺麗で可愛らしい女性だ。
「っていうか、わざと遠慮したの。だってあの人ったら、嬉しそうにカナの散歩にサチさんが付き合ってくれるってのろけちゃってね。その顔があんまりにも無邪気だから邪魔しちゃ悪いかなって」
「へ、邪魔?」
「ふふっ、冗談よ。本当にあの日は出かける予定が合ってね、噂のサチさんを紹介してもらいそびれちゃったの。あぁ、そう、カナを以前庇ってくださったんでしょう? あたしこそお礼を言いそびれちゃって、ありがとう、サチさん」
とんでもないと、あたしはブンブンと首を振ってみせた。席に付いて、朝ご飯を頂く。
だけど、家の主、北原さんの姿がない事に今更に気付いた。
「あの、北原さんは?」
「あぁ、あの人昨夜は帰れなかったの。放送した番組への問合せが殺到したらしくてね。会議も緊急に入ったりして、局に泊まったの。よくあることなの」
問合せが殺到……。
「あ、でも帰ってきたみたい」
え? 彼女はチラリと視線をドアのほうに流す。数秒してから、カナが、落ち着かない様子で部屋の中を尻尾を振りながら歩き回り始めた。
あたしには、何も聞こえなかったけれど……。
しばらくすると遠くで玄関の鍵を回す音がかすかに聞こえた。そして廊下を歩く音が響いてきたのだ。
「ただいま……お、サチさん昨夜はよく眠れた?」
そう言いながら、北原さんはダイニングに入ってくるなり大きな欠伸をした。気配を感じるのだろうか。カナが勘付くちょっと前から、奥さんは北原さんが帰ってきた事を察知していた。きっと、小さな小さな北原さんが立てる物音を聞き逃さないのだろう。すごいなぁって感心する。何だか感動しちゃったよ。
「あなた、ご飯頂く?」
「あぁ、軽く貰おうかな。シャワーを浴びて着がえたら、また局に行くから」
「えっ、北原さんまた仕事に行くんですかっ?」
「まぁ、いつも楽してるからたまには働かないとね。それに仕事を片付けて今晩は早く帰らないと」
「あら、あなた無理しなくてもいいのよ。サチさんも居てあたし退屈しないから」
「何か予定があったんですか?」
「今日は結婚記念日なのよ。もう、今更お祝いパーティって年でもないんだけどね」
「えっ!わぁ、おめでとうございます」
その言葉に、嬉しそうに奥さんは笑みを返してくれた。
「あの、そんな大事な日にお邪魔しちゃって、あたしったら……本当に、ご迷惑かけてすみません。お二人でゆっくり外でお食事でも行ってらして下さい。あたし、カナといい子にお留守番していますから」
「あら、娘がお嫁にいっちゃっていないから、サチさんがいてくれて女同士、嬉しいのよ。もし良かったら、一緒にお祝いしてくださる? 美味しいビーフシチューを作るから」
「娘は旦那の転勤で今、福岡にいてね」
カウンターキッチンの端に飾られている写真が目に入る。白いウェディングドレスで、幸せそうに笑っている花嫁の写真。
「これ、ハワイで挙式した時のですか? 娘さん、奥様にそっくりですね」
「そうなんだ。ホント僕に似なくて良かったよ」
ふふっ、と笑いが込み上げる。奥さん似で良かっただなんて、結構すごいのろけだ。
「あ、ところでサチさんは夕べの桂木君のインタビュー見たのかな?」
「途中からですけど、ビックリしました」
「そっか。君に連絡がつかないと、番組前に岡部君が気を揉んでいてね。いや、生放送だったし、予定の俳優が急に出られなくなって、ホント緊急にお願いした対談だったんだよ。まさか、恋人宣言になるとは、僕にも予想だにしなかった展開になっちゃったんだけどね」
キョトンとした顔で、北原さんの奥さんがあたし達の会話を聞いている。
「あ、そうだ、カオリさんにはまだ詳しく説明してなかったね」
カオリさんって言うんだ。自分の奥さんを、そんな風に名前で呼ぶのって素敵だな。
岡部君には了解を得ているからと、あたしに前置きすると、北原さんは奥さん、カオリさんに話はじめた。
「実はサチさんは、桂木ユウタの恋人なんだ」
「桂木ユウタって、あの桂木ユウタ?」
「そう。俳優の桂木ユウタ」
……。
暫し沈黙が流れた。
「えっ……ええっ!すっごいサチさんっ」
ムンクの叫びのように、両頬に手を当てて、カオリさんは目を白黒させた。
やっぱり、驚くよね。
「あなたの番組で夕べ、桂木ユウタが恋人宣言をしたって訳なのね」
「そういう事。まぁ、さすが岡部君だよ。これから世界に飛び出していく彼の抱負を語るところに、さらりとサチさんの存在を混ぜてしまうなんて」
「マスコミはサチさんを探し回っているのでしょう?」
「まぁね。でも岡部くんからの条件で、今、写真は一切外に出ないように制限されている。桂木君が夕べの番組に出たのも不意打ちだったし。写真の顔もそんなに大きくは映してないからあれだけじゃサチさんってなかなかわからないんじゃないかな。誰か気付いて電話とかしてきた? サチさん」
「あ、本当に親しい友人が一人だけ」
「気付いた人がいても、あれ? 似ているって思っただけで、その頃には番組は終っていただろう。気になる人は、サチさんに確認の電話してくるはずだよね。だから、今回、本当に気付いた人間はその友達一人なんだと思うよ。ただ、動画も拡散しないよう監視をかけるから次の再放送の時にはものすごい視聴率だろうし、その時にはマスコミも嗅ぎ付けるかもしれない」
「えっ、再放送っ?」
「それもタイミングは岡部君が見計らっている」
何だかすごい騒ぎになっているぞとドキドキしてきた。
「ねぇ、あなた再放送の時、絶対に教えてね」
「……ほらね、きっとすごい視聴率だ」
肩をすくめて、北原さんはおどけてみせた。
ヒロが訪ねてきたのはお昼前だった。北原さんは既に会社に出かけた後で、カオリさんはゆっくり話が出来るようにと書斎に案内してくれた。
「突然、了承も無しに公表して申し訳なかった」
深々とヒロはあたしに頭を下げた。
細身の革のジャケットに同じ素材のパンツ。黒で統一されたコーディネートはどこか無機質で、ヒロのクールな魅力を引き立たせている。
「……本当、あんまりだよ」
そう答えるあたしに、ヒロはまだ頭を垂れている。
「あんな大口開けている写真選んでくれちゃって、もっと可愛く写っているのなかったの?」
「は?」
眉間に皺を寄せた顔でヒロは頭を上げた。
「お猿さんみたいに皺くちゃ顔だった」
「……ぶっ」
ヒロの肩が笑いを堪えて小刻みに震えている。ひどい〜、やっぱり猿顔だって思ってるんだ。
「失礼。いや、いい写真だって思ったんだが、お気に召さなくて残念だ。それにしても、サチがあの番組を見ていたとは、驚いたな。ほら、あんまりテレビを見ないと聞いていたから」
「あ、うん、友達が電話してきたの。テレビに映っているのってあたしじゃないかって」
「そういう電話をしてきたのってその友達だけ?」
「うん」
「その子何て言っていた?」
「これって、サチじゃない? って。でも、丁度その時、北原さんの奥さんが迎えに来て、その後バタバタしていたから折り返しの電話をしそびれちゃったまま」
黙り込んだあたしに、ヒロは気遣いを含んだ眼差しを投げてきた。
「大丈夫か?」
「……うん。その子すごく親しい友達で、ずっと彼氏に今度会わせてねって言われたの。もちろんユウちゃんが相手だなんて知らせてなかったら、ショックだっただろうなって」
「そうか、その子って俺から連絡しても構わないかな?」
「えっ、ヒロから?」
「今日、俺のほうから詳しく状況を説明して、お詫びを入れておきたい。差し支えなければ連絡先を教えて欲しい」
「でも……」
「任せておけ」
ヒロが連絡を入れるだなんて驚いてしまったけれど、妙に説得力のある声色に結局は了解してしまった。
「あの、あたしからも仕事が終って帰る頃に、部屋の方に電話するからって伝えておいてくれる?」
わかったと、ヒロは優しい声色で答えた。
「北原さんからも聞いているかもしれないが、あの番組の再放送があるんだ。タイミングは俺達が香港に入ってからとしてある。1週間以内だ」
こくり。
写真の差し替えは出来ないものかと頭の隅で思いながらも、頷いてみせた。
「今回はマスコミも、あの写真がサチだと、特定出来るまでには至らないと思うが、再放送の時には視聴者も、桂木ユウタの恋人が見れると構えているので、気付く人もいるかもしれない。例えば、出版関係でサチに関わっている人間とか」
あぁ、そりゃそうかもしれない。
カオリさんの淹れてくれた紅茶に口をつける。ふわりと林檎の香りがした。あ、これフォションのアップルティだ。香りの高さが違う。お皿に積まれたヨックモックのシガールもぽりぽりと頂く。葉巻状に巻かれたこのクッキーの歯ごたえはやっぱり最高だなぁなんて、思っている自分に気付きちょっと飽きれる。あたしってつくづく、能天気な人間だなって。
ナオへの説明をヒロがちゃんとしてくれるって聞いたら、少し気持ちが軽くなった。何処からどんな風に説明しようかと、頭がこんがらがっていたのだ。
もちろん、自分の口からもちゃんと謝らなくては。今まで口をつぐんで、誤魔化し続けてきたのはあたし自身なのだから。
「サチ、こちらの勝手な都合で振り回してすまないが、二、三ヶ月、一緒に香港に来られないか?」
「へ?」
「日本にいたら、きっとすごい騒ぎに巻き込まれる。香港の方で落ち着いて過ごせる環境のところを探すから。ユウタは、撮影で留守がちだとは思うが、その数ヶ月の間にこれからのことを俺のほうでゆっくりと考えてみる」
「わぁ、行くっ。香港ってご飯美味しそうなイメージ」
答え、間違っていないよね? ヒロの目元がパチパチと瞬きするのが見えた。
「仕事とか、大丈夫か?」
「画材なんて香港でも手に入るだろうし、あたし会社通いのOLじゃないから。期日までに仕上げて日本に送れれば全然大丈夫」
そうか…と、ヒロが安堵の溜息をつく。
「ヒロってさ、すごいんだね。北原さんも感心していた」
「何がだ」
「立ち回りが鮮やかだって。ユウちゃんがどうやったらその先に進めるか、いつも一番いい方法を切り開いていくのね」
「アイツがガキの頃から面倒見ているからな。親代わりみたいなもんだ」
「ガキって、いつ頃から?」
「アイツが十六の時に親父さんが海外転勤になって、それをきっかけにユウタは檀プロダクションのタレント養成合宿所で暮らしていたんだ。その頃から面倒見ていた。まさか、同じチームを組んでデビューするとは思ってもいなかったが。ま、俺のデビューの意味は身体で現場を覚える為だったんだが」
親代わり……。
その頃のユウちゃんとヒロを見てみたいな。想像すると、何だか微笑ましい。
予定を早めて、明後日には香港に出発するとヒロは告げてきた。明日の夜タクシーを手配しておくから、アパートに寄ってパスポートや簡単な荷物をまとめ、再びタクシーで三浦の別荘にきて欲しいと言われる。
あたしのアパート周辺は、マスコミが嗅ぎ付けていないか、24時間体制で人を雇って見回りをさせているとヒロは言った。とりあえず今のところ動きはないらしい。変化があったらすぐに知らせがはいるのだと。必要なものは向こうで買って経費で落すから、簡単な支度で来てくれとヒロは念を押した。
すごい、さすが。
艶やかな手腕に、ただ感服するばかりだ。
夕方,前から、カオリさんと夕食の支度に取りかかる。
「ビーフシチューのコツはね牛バラ肉を使って、ワインをふりかけながら炒めるの」
軽快なリズムで玉葱を刻む彼女の包丁さばきに感心しながら、もたもたとあたしはピーラーでジャガイモの皮を剥く。
「サチさん普段あまりお料理しないでしょう」
ぐさっ。やっぱりわかるのかな?
「これじゃあ、お嫁にいけない……ですよね」
「あら、あたしなんて結婚した時お米の炊き方も知らなかったのよ。お米を洗うのって食器用洗剤でやるのかと思っていたくらいなんだから」
「えっ、信じられないっ」
「サチさん、あたしよりましよ。少しづつ覚えて、気付けばベテランの出来上がり」
そうなんだ。そうなんだ。
ユウちゃんがあんまり料理が上手で、ずっと劣等感というか、そんな気持ちを抱えていた。
毎日ユウちゃんにご飯作っていたら、美味しいビーフシチューを作れるようになるのかしら?
ハッ、何考えているんだろう、あたしったら。
毎日って……毎日って……。
「あぁ、残念だわ。明日の夜にはサチさんいなくなっちゃうなんて。もっとゆっくりしていっていいのに」
ヒロから告げられたのだろう。カオリさんが名残惜しそうにそんな言葉を投げてくる。
本当に、気さくで素敵な人だと思った。母より少し若いかなって世代なのに、友達のように笑い合える魅力がある。
ピンポ〜ンッ。
おもむろにチャイムが鳴り響いた。
カオリさんはお鍋をちょっと見ていてねと言うと、あたふたとキッチンを出て行く。数分後、再び戻ってきた彼女は、大きな花束を抱えていた。
「うわぁ、素敵!」
ショコラ色の薔薇、エンジ色のカラーに同じ色合いの野花が混ぜ合わされている。大人の女に贈る、シックな花束って感じ。
ふふっと意味深な含み笑いをすると、カオリさんは大事そうにダイニングテーブルの上にそれを置いた。
「あっ、もしかして北原さんから?」
「あら、旦那様以外でも、お花を贈ってくれる殿方がいないわけじゃないのよ」
へぇ〜と、感嘆の眼差しでカオリさんを眺める。
「な・ん・て・ね。大学時代からの友達からなの。あの人と、あたしと、花の贈り主、長い長い腐れ縁仲間よ」
あ……。
“彼女が心変わりしないように。そう心を砕いていると不思議なことに常に恋している気持ちになる。いや、のろけている訳じゃないんだけどね”
以前、公園で、そう告白していた北原さんの言葉が頭をよぎる。花の贈り主は、きっとあの時耳にした人物なのだろう。
「その人ってね、娘の結婚式でも一番に泣き出しちゃって、花嫁の父よりそれらしかったわ。でも長い付き合いでも泣き顔なんて初めて見ちゃってね、ありがたいなぁって思ったのよね」
思い出したような遠い眼差し。
「大事な友人って人生の宝ね」
ふわりと、幸せそうに彼女は呟いた。本当にその人を大切に思っている気持ちが、言葉の響きに溢れている。
その男の人は、どんな気持ちで二人の結婚記念日に花を贈るのだろう。そう思わずにいられない。カオルさんが幸福である事。ただそれだけを願い続けているのだろうか。
北原さんが家庭を放り出している時期に、入り込む隙はあっただろうに。黙って奪ってしまおうとは思わなかったのだろうか。愛しているのだと、口にしてしまった事はなかったのだろうか。
ヒロは……。
ねぇ、どうしてそんなに広い愛でユウちゃんを抱き締める事が出来るの?
ブルンブルン。
トイレから廊下に出た時に、携帯の着信が後ろポケットを震わせた。
着信は、ナオだ。
あれ? まだ5時前だよ。会社が終るには早い時間。ちょっと緊張した気持ちで電話に出る。
『サチっ、来たよ来たっ!』
もしもしと言う間もなく、ナオは受話器の向こうで話し始めた。
『岡部ヒロが来たよっ。昼休みに電話もらって、今日時間がありますかって言われて、あたし退社まで待てそうになかったら早退しちゃったの』
早退……。
「ごめん、あたしの話で早退なんてさせちゃって」
『馬鹿ね。あたしが我慢できなかっただけよ。それに岡部ヒロに会うのもちょっとそそられちゃって、ね』
「ナオ、あたし……」
『あぁ、もういいの。良くわかってるわよサチが言えなかった理由。こっちこそ探るような事ばっかり言っちゃって悪かったわ』
「ナオは悪くなんか」
『きっと、いつかは話してくれたでしょう? そう信じている』
優しく、けれども確信を持った響きで、ナオはポツリと言い切った。
胸の奥がつんと痛くて、泣き出しそうな嗚咽が小さく喉を突き上げてきた。それをぐっと堪えて話を続ける。
「うん」
『でも、いい男だったなぁ、ヒロ。ユウタはサチにGETされちゃったから、あたしこの出会いを運命と信じてアタックしちゃおうかしら』
冗談とも取れない口調でナオは言うと、受話器の向こうでクスリと笑ってみせた。
『休暇を取って、香港に遊びに行くからね』
「えっ、本当に?」
『だってヒロからご招待うけちゃったんだも〜ん』
さすがヒロだ。気が効くというか、抜かりがないというか。
『サチ、あたし昨日テレビ見た時は、さすがにびっくりしちゃたんだけど、その後は不思議と納得出来ちゃったんだよね。だってあの写真すごく幸せそうでさ、お似合いだって嬉しくなっちゃったくらいだよ。それにしてもサチに片思いって、ふふっ、ユウタも苦労したんだねぇ』
香港でゆっくり会おうねと電話を切った。気のいい最高の女友達。自分は恵まれているなと、神様に感謝したい気持ちだ。
北原さんは、お祝いのケーキとシャンパンを抱えて、いそいそとご帰還した。綺麗に生けられたテーブルの花を見て 「あいつ、今年は奮発したなぁ」なんて感心している。
「花が届いたあと電話したら、今年からは夫婦二人きり、喧嘩しながら仲良く頑張れだって」
「ハワイの結婚式以来、随分ご無沙汰しちゃってるよな。また三人で飲みにでも行ってみるのも今更で楽しいかもしれないな」
「そうね、あ、今日のお料理は、サチさんも手伝ってくれたのよ」
そりゃ楽しみだとネクタイを緩める北原さんに、苦笑いを返す。
味見、カオリさんにして貰ったから、多分大丈夫なはずなんだけど。あたしの心配を他所に、パーティは始まった。カナも今日は特別な日だとわかるのか、床に置かれたお皿の前で、きちんとお行儀良く夕食を頂いている。
聞けば、北原さん夫婦は二十五歳で結婚して、今回、二十四回目の結婚記念日なのだという。
「じゃあ、来年は銀婚式ですね」
「あら、そう言えばそうじゃない。来年はどこかゆっくり旅行でもしたいわ」
そう、おねだりするカオリさんに 「そうだなぁ」と北原さんは考え込んだ。
「のんびりしたところがいいよな。ヨーロッパとかだとあちこち出回らなくちゃいけないからね。何にもない自然に囲まれた静かな所がいい」
ぴくり。
それって言えば、と思わず反応してしまう。
「そういえばサチさんの写真、本当に素敵なところだったよね。海の色が息を呑むほどに。視聴者の反応も好意的なものが多いみたいだよ。桂木君のあんな子供みたいな笑い顔、見たことないとか、幸せそうで応援したいとか。あの写真は何処で撮ったものなのかって聞いてくるのも多いみたいだ」
本当に? 電話が殺到ってクレームばかりだと思っていた。
きっと、ネガに焼きついた南の島の魔法が、目にした人々に降り注いだのだ。楽園の太陽は、どんなフラッシュライトより、被写体を美しく照らし出してくれたのだろう。
「ハワイの海も綺麗だったけど何が違うの? サチさんったら何処に行ってたの?」
カオリさんに問われる。
「おいおい、そんな質問攻めじゃ、サチさん困っちゃうよ」
北原さんが気を遣ってくれているのか、やんわりと制している。今更、ここまでお世話になっていて、内緒にしろとはヒロも言わないだろう。ましてや、北原さんが言いふらすとも思えない。
「モルディブです」
モルディブ? 二人が声を揃えて興味深々に覗き込んでくる。
どんな風に言葉で伝えたらいいのだろう。青い海と空、白い砂浜を歩けば、あっという間に一周出来ちゃう小さな島々。そう口にしてみれば、ありふれたビーチリゾート。
あの特別な時間は、楽園の風に包まれなければ感じる事など出来ない。けれども、少しでも伝えたいと思った。足を踏み入れるきっかけは、人生を変えるほどに大きいのだから。二人の記念すべき銀婚式に、相応しいバカンスを教えてあげたい。
たどたどしく言葉を選んで島の話を始めたあたしに、二人はじっと耳を傾けてくれた。
ざぁっと、お皿に付いたシャボンの泡をお湯で洗い流す。
カオリさんは自分がやるからいいのにと気を遣ってくれたが、後片付けくらいやらせて欲しいとあたしは譲らなかった。
ゆっくりしていて下さいと、彼女を無理やりカウンターキッチンに座らせて、皿を洗い続ける。
北原さんは昨夜の徹夜が祟ったのか、一足早くご就寝した。さっき、ほろ酔いで眠そうな彼の手を取って、寝室へと送るカオリさんの後ろ姿、微笑ましかったな。
そんな事を思いながら、きゅっと蛇口を回し湯を止める。
「来年が楽しみだわ」と、カオリさんは頬杖をついて残ったシャンパンに口に含む。
「ハワイも素敵だったけれど、なんせ娘の結婚式だったし、旅行って感じじゃなくって、そんな小さな島に出掛けるなんて、今まで考えた事もなかったわ。でも聞いちゃったらもうワクワクしちゃって」
「えぇ、本当に是非良かったら出掛けて下さいね。来年あたしチェックしちゃいますよ」
「あたしね、婚約中に妊娠しちゃったから、ハネムーンはお預けだったの。そういえば二人きりで海外旅行なんて初めてなのよね。素敵なところを教えてくれてありがとう」
「そうだったんですか……」
手を拭いて振り向くと、カオルさんが自分の席の横にあたしの分のシャンパンを注いでくれている。年代の違う女同士、こんな風に語り合うのも悪くない。あたしは素直に彼女の隣に滑り込んだ。
「結婚を決めるきっかけって何だったんですか? やっぱりバシッと北原さんがプロポーズを決めてくれちゃったとか?」
「あたしが結婚してくれなくちゃ嫌だって泣いて頼んだの」
「えっ?」
「大学卒業してお互い社会人の生活になったら、会えない日が続いてね。たった1.2年で不安になちゃったのよ」
「泣いて頼んだんですか?」
「うん、そう」
意外な話の展開。
そうか、そういうのも有りなんだ。お決まりのパターンしか乏しい知識としてなかったあたしは、目から鱗が落ちた気がする。色々な人生、結婚するきっかけもそれ同様に様々なのだ。
「絶対に離したくないって思ったの。二十四年も夫婦していたら色々あるのよ。だけど、自分自身で心に決めた結婚だったから、今まで後悔したことだけはないわね」
そうなんだ。
女が導いていくっていうのも、いいものかもしれない。
「じゃあ、生まれ変わっても、絶対また北原さんと結婚したいってやつですね」
冷やかし半分で投げかけた言葉だった。話の流れで当たり前のように、そうだという返事がくると思っていた。
けれど……。
「ふふっ、内緒」
ほんのりと酔った眼差しで、チラリとダイニングテーブルの花に視線を流しながら、カオリさんは思わせぶりに笑ってみせた。
【続く】
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